博多区の呉服町界隈に残るレトロな街並み、ノスタルジックが止まらない素敵な通りを歩いてきました。
竪町筋は博多のレトロゾーン呉服町に残るレトロな通り筋
その歴史は2000年とも言われ、京都よりも遥かに長い歴史をもつ博多の街。いまは古き良き時代の面影がほとんど失われてしまい、無個性な地方都市になり果てつつある博多の街並みではあるけども、そんな中でも御供所町から呉服町にかけてのエリアは古い博多の姿を残す貴重なレトロゾーン。カメラを持ってぶらりと歩いてみれば、そこにはノスタルジックな風景が広がっていました。
江戸時代に博多の入り口として設けられていた石堂口に立ち寄り、そのまま北上して下呉服町へと歩いて行くと「堅町筋」という素敵な通りに出ました。
江戸時代のこの辺りは柳町と呼ばれる遊郭街があったり福岡藩の竪町刑場があったりした場所で、多くの人で賑わった歓楽街だった場所。いまではひっそりとして人通りも少なく、往時の面影どころか痕跡すら見つける事が出来なくなっています。
ふと見上げた電柱にこの地の出来事を書いた看板が張り付けられていました。博多の旧市街には歴史的な出来事があった場所などにこのような看板が設置されています。
内容を読んでみると、太平洋戦争に敗戦した日本。敗戦後の博多港は外地からの引揚げ者を受け入れる日本最大の引揚港となっていて、外地から日本へと帰ってきた人たちはこの道を歩いて博多駅へと向かい、汽車に乗って故郷へと帰っていったそうです。この道を歩いた人の数は139万2429名、毎日毎日、外地から引き揚げてきた人たちの列ができていたそうです。その中には「あしたのジョー」の作者、ちばてつや氏の姿もあったのだとか。
古い建物は壊されて多くは残っていないんだろうけども、どこかノスタルジックな道。かつては多くの人が行きかった道、寂びの風景。
新しい建物と古い建物が混在する街並み。
少し歩くと見事な町屋が現れました。
築130年という町家を改装したカフェ&バー「みねとこ」です。もとは酒屋さんだったのだとか。
さらに歩くと見事な邸宅を発見。旧商家でしょうか、間口を大きくとった立派な家です。よく見てみると、二階の4つある窓の内奥の2つに銅扉が取り付けられていますね。
土蔵造りの家ではよく見かける銅扉ですが、木の外壁で銅の扉が付いているのは珍しいんじゃないでしょうか。
旧下竪町(しもたてちょう)と書かれた石碑、博多の街の古い町名が書かれています。
漆喰が剥がれたり傷みがありますが、古くて立派な建物。福岡市も観光に力を入れるのであれば、新しい街の整備だけでなく古い建物の保存にも力を入れてほしいところです。
角度を変えて「遠藤家」の住宅、築250年を超える古家の堂々たる佇まい。
遠藤家住宅の前にあった電柱看板の説明を読んでみると、この家の主である遠藤家は1600年に黒田長政が筑前福岡に入国した際に京都から付き従って来ました。質屋業を営んでいた遠藤家、私財を投じて石堂河の護岸工事をし、ここ竪町を造成したと書かれています。そしてこの家は築250年を超えるそうです。
近くにあったこの建物も古い町家、外壁は新しくされていますけど間違いなく町家。いわゆる古民家というやつですよ。
コチラは連棟で建っていた家が解体されたためか、隣家の跡がくっきりと残ったビル。
続いて見えてきた重厚な造りの「高橋邸」の建物。
こちらは大正時代初めに建てられたそうなので、築100年くらいの典型的な町屋。こんな家が周りに沢山あったんだろうけども…
そういえば古い町並みを残して今や大人気の場所が長野にあるんだけれども、そこの人たちがスローガンとして掲げたのが「売らない、貸さない、壊さない」だったかな。おかげで江戸時代から続く宿場町の姿が、ほぼ当時のまま残った。地域が本気で残す覚悟をしないと、古い町並みは残せない。簡単じゃないんですよね、残念だけど。
竪町筋の微妙にずれた十字路。こういうのが何というか、たまらないというか、昔の道を歩いているという実感がわくというか、凄くカッコいい交差点に出会いました。そしてココから先が大博町です。
そういえば博多の処刑場があったのってこの辺じゃなかったでしたっけ、交差している通りが大浜通り、すぐ近くに大浜公民館があります。福岡藩の処刑場は大浜刑場とか竪町刑場とか言われていますよね、こんど来たときは処刑場の痕跡を探してみる事にしましょう。
しばらく真っ直ぐ歩いて見事な家があったので、今まで歩いてきた竪町筋を振り返るように撮影してみました。この角の家が古くて立派、存在感抜群なのです。
近くにあったこの家も立派な古民家。格子がとても素敵で、二階の窓も木枠で味がある。かなり壊されてしまったとはいえ、それでもこれほど多くの古民家が残る通り、博多では貴重です。
細い竪町筋を抜けて、那の津通りという大通りに出たところが終点。ここには供養塔が建てられていて、何の供養塔か調べてみると、1732年から1734年にかけて続いた享保の大飢饉で亡くなった人の供養塔でした。
アップにしてみると享保という文字が見えますね。享保の大飢饉では当時の博多の人口約19000人に対して、そのうち6000人以上が死んだというのですから、住民の3割近い餓死者をだしたとんでもない飢饉だったんです。この飢饉に関する供養塔などは各地に残っていて、中洲にある川端飢人地蔵尊が有名ですね。
という事で何気なくレトロな通りを歩いてみると、そこから土地にまつわる歴史に触れる事が出来ました。形として建物などは殆ど残っていないけども、こうやって過去の歴史に触れる事が出来る場所があり、数百年の昔に暮らしていた人たちと同じ道を歩くことで過去と現在、歴史の繋がりをリアルに感じる事が出来ました。過去を知り現在を生きる、そして昔の人々と同じ場所に立って歴史に思いを馳せる。
街を歩くのって本当に楽しいですね。
「竪町筋と遠藤家」
住所:福岡市博多区下呉服町10-132(遠藤家)
※この記事は私が訪れた時のものです、現状と異なる場合があります。
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