東京のお台場といえば誰もが知る観光スポットですが、実は江戸時代に築かれた砲台のあと。福岡藩にもありました。
「須崎台場跡」福岡博多の海を守った砲台跡
お台場といえば東京にあるものと思っている人が多いかもしれませんが、日本中にあったりするのです。福岡にもお台場は存在していて、天神の須崎公園には台場跡の石垣が今も残っています。そもそもお台場というのは外国船から街を守るために造られた砲台のことで、幕末期に全国の海岸などに造られました。
須崎台場跡があるのは天神5丁目、ちょうど天神の北端あたり。現在は須崎公園として整備されていて、敷地内には県立美術館があります。
須崎公園にある福岡県立美術館。中を覗いてみようかと思ったんだけれども、あまり面白そうな展示をやってなかったので…また次の機会に。
須崎公園は思ったより広くて、中心部から離れているためか静かといえばアレだけど、ぶっちゃけ寂れた雰囲気の公園。
平日の昼間だからかもしれないけども、公園の中で見かけるのは孤独な老人ばかり。過疎化が進む地方の現実、福岡だって地域によっては例外じゃないんだよね。
さて須崎台場跡なんですけども、公園がけっこう広いのでなかなか見つからない。ぐるっと一周する覚悟で歩いて行くと、ちょうど北東端辺りに大規模な石積みを発見。ここがまさにお台場跡でしょう。
言われなければそうとは気付かないほど地味に積み上げられた石垣。遺構を示す看板も何もなく随分と寂しい場所ですが、ここが須崎台場。静かに時を重ねてきた福岡防衛の最前線。
台場の内側に入ってみると、なるほど外に向かって構えをとっている施設だと、その形からよくわかります。
現在は台場の先に福岡ボートの競艇場がありました。幕末はここが海岸線だったので、この先は埋め立てられた土地。

画像:国土地理院(2005年)
航空写真で見る須崎台場跡、ここが海岸線。ちょうど那珂川の河口にあたり敵船の侵入を防ぐための砲台でした。

写真:国土地理院(1939年)
上の二つの写真は同じ場所を撮影した航空写真。下の写真を見ると、須崎台場が海に向けられた砲台だったと分かります。
※航空写真の須崎台場跡は、私が見比べてここだ!と思った場所です。もしズレてたらごめんなさい。
お台場の上に立ってみると、思ったよりも幅が狭い。形状は横長のコの字型になっていて、海からの攻撃に備えた陣地だと十分推察できます。
ただ海側に壁を作り銃兵が構えるなら十分な幅だと思うのですが、当時の大砲は駐退機(砲身が発射の反動を吸収する機構)が無いために砲撃と同時に大砲は反動で後退するはず。その距離が十分とれていたのかなぁと、ふと思ったんですね。

画像:photoAC
上の写真は当時の台場を再現した下関の砲台です。こうやって見てみると、反動で後ろへ後退できるように木でレールが付けてありますね。当時の写真を見ても同じような構造をしていて、意外とコンパクトに収まっています。須崎台場も同じような砲が備えられていたのでしょう。
内側の石垣をアップで撮影すると、台場の上に壺のようなものが埋められていました。これは砲台のために備え付けられたものなのか、それとも後の時代に埋められたものなのか、どうなんでしょう。
一通り端から端、西から東へと歩いて東端から西方向を撮影してみました。
そして西端まで歩いて行き、海側の石積みを撮影。
この石積みは1863年の完成当時のまま、現在も活用されているそうです。さすが軍用に造った施設は丈夫です。
競艇場へと続く歩道橋の上から須崎台場跡を眺めてみると、堅固な砲台が築かれていたことがわかります。砲撃は砲台だけでは出来ない事から、この近くに弾薬庫や兵舎、屯所などもあったのでしょう。
黒田家の旗が翻り、大砲がずらりと並んだ姿。一度見てみたい、下関みたいに再現して欲しいものです。
須崎台場について
福岡にもこのような台場が造られたいきさつについて少し調べてみると、造られ始めたのは幕末の頃、ペリーの来航やロシアなどの外国船が日本に頻繁に来るようになった頃から国防のために急いで整備されたようです。福岡藩は全部で13の台場を建造し、博多周辺には7ヵ所。姪浜、波奈(西公園)、須崎、対岸の西戸崎、志賀島、能古島と博多湾を囲むように配置されていました。つまり博多湾に侵入した敵船を包囲攻撃できる配置になっていたわけですね。
須崎台場が完成したのは1863年、15門の砲が配備されていました。当時の外国勢力の武力は圧倒的で、福岡藩は外国船を購入すると同時に台場整備を急ぎ、最悪の事態に陥った場合は福岡城を放棄し内陸部で防衛戦闘を行う事を想定して犬鳴谷(福岡県宮若市)に藩主の別館を整備しました。
建物は失われましたが、黒田藩主犬鳴別館の跡には今も石垣が残っています。ドローンで空撮された動画があったので、貼っておきます。
須崎台場は侍による統治が終わろうとしていた時代、その最前線で国防の任に就いていた福岡藩士たちが過ごした場所。当時の日本人が抱いていたのは、ひとえに国が無くなる事に対する恐怖だったのではないかと思います。東南アジアの地が植民地化されどのような扱いを受けていたのか、清国(当時の中国)の欧米諸国による悲惨な搾取の実態。キリスト教徒の白人以外は人にあらずという狂った教えによって、ヨーロッパから世界を席巻した白人至上主義、それを具現化する欧米列強。当時の日本人はまさに滅びの恐怖に慄き、そしてその理不尽に対して大いに怒っていたのだと思います。
「総じて国を守護するは必大事なり、尋常の人と同じ心得にて、先政道に我身の行様乱さずして万民の手本となるべし」
かつての福岡市長である進藤一馬氏の書、須崎公園にある筑紫の碑に刻まれています。氏は明治37年の生まれ、平成4年に他界しています。まさに激動の日本を生き抜いた人で、その言葉には大変な重みがあります。かつて国防の前線であったこの地に立ち、平和が当たり前の時代を過ごしている安川ですが、平時において乱を忘れず、戦乱と平和は表裏一体という歴史をしっかりと胸に刻んでおこうと思います。
だから何かが出来るという訳ではないのですが…
「須崎台場(砲台)跡」
住所:福岡市中央区天神5丁目2(須崎公園内)
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