幕末福岡って地味ですよねぇ…佐幕と討幕で藩論は揺れて結局幕府よりの姿勢を崩さなかった福岡藩。そんな中でも尊王攘夷、倒幕路線を走り続けた藩士がいました。
「節信院」博多御供所町にある寺院、加藤司書の墓がある菩提寺
節信院は博多区御供所町、聖福寺の裏手にひっそりと伽藍を構えている聖福寺の塔頭(たっちゅう)寺院。塔頭寺院とは、禅宗で高僧が開いた大寺の周りに立つ小寺院。中世博多では、聖福寺の寺内に数多くの塔頭寺院があり、節信院もその一つです。14世紀に開山したと思われますが、詳細不明。
広大な聖福寺の敷地内に建つ節信院、すぐ隣には聖福寺の門があります。
門のスグ脇にある加藤司書徳成(のりしげ)について書かれた案内板。すっかり隠れてしまっていて、よく見ないと見逃してしまう状態。
先ほど見えた聖福寺の門をくぐって道なりに歩いて行くと、節信院の看板がありました。
看板のすぐ近く、聖福寺境内に建つ塔頭「節信院」の山門です。
門をくぐって目の前に広がっているのは、綺麗に手入れされた美しい庭と境内と本堂。建物の配置も美しく、とても居心地のいい空間。
このお寺の見どころはなんといっても幕末の勤王志士「加藤司書」の墓所です。かつては軍人の参拝が多かったという事ですが、いまは静かにひっそりと埋葬されています。
墓所があるのはちょうど本堂の裏側。大正4年の墓地改葬で発掘された時には、甕(かめ)の中から血がついて茶色に変色した袷に肉片も少し付着した状態で出て来たそうです。
幾つかの墓があるなかに、加藤司書の墓がありました。
贈正五位と書かれています。これは官位と言って、宮廷における身分を表す階級のようなもの。正五位は戦国時代だと有力大名が叙せられていました。大膳大夫とか近衛少将とか、聞いたことありませんか?加藤司書の場合は明治時代に奏授されているので、江戸時代までのものとは少し違うみたいですけどね。
勝てば官軍、戦いに勝利したのは倒幕派ですから、倒幕のために奔走した活動家を罪人のままにしておくわけにはいきません。加藤司書はその罪を赦され、官位を送られています。いつの世も力で勝利した者が歴史を作る権利を持ちます。人の欲望がある限り戦いは無くならない、戦うなら勝たねばならない。明治維新は反政府過激派が政府を武力で倒したからこそ正義なのであって、幕府が勝利していれば長州や薩摩は内乱を起こした反乱軍として処断されていたでしょう。
加藤司書が書き留めた有名な言葉「皇御國(すめらみくに)の武士(もののふ)はいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心(まごころ)を君と親とに盡(つく)すまで」が彫られた石碑が建っています。
幕末維新の頃、倒幕派と佐幕派とで争いが起きましたが、どちらが悪というわけではなく共に正義でした。外国からの脅威に対して日本がどうあるべきか、それぞれが真剣に考え信じた正義を貫いたのです。戦争とは正義対悪ではなく正義対正義の衝突。勝者の正義が残り、敗者は悪とされるのです。
福岡藩で活躍した加藤司書の墓に参ってきたわけですが、そもそも誰なの?という人の為にザックリ説明しておきましょう。
加藤司書徳成は福岡藩の家老職2800石、藩の要職にあって倒幕派の中心的人物でした。福岡藩を倒幕派にすべく奔走しますが、幕府支持の藩論を覆すことが出来ず。また外国勢力との戦闘となった場合、福岡城を放棄することも考慮して万一に備えた藩主別館を宮若市犬鳴村に建設。このことが福岡藩の幕府支持層に弾劾の機会を与えてしまい「山奥に藩主を幽閉し謀反しようとしている」と疑いをかけられてしまいます。
最終的に倒幕派の過激な藩士たちは藩から弾圧を受け、加藤司書徳成をはじめ主だったメンバーは切腹。倒幕派は壊滅し、福岡藩は明治維新で勝ち馬に乗る事は出来ませんでした。
加藤司書が切腹したのは墓のある節信院ではなく、東長寺の近くに建つ「天福寺」でした。上の写真は櫛田神社一の鳥居と、その隣「天福時跡」に建つビル。
ビルの名前は「福岡祇園第一生命ビル」。敷地内に加藤司書自刃の地として、辞世の歌が刻まれた天福寺跡の碑があります。
何気なく通り過ぎてしまいそうな場所ですが、僕たちが日常生活を送っている場所は、過去の人たちによって様々な人間模様が繰り広げられてきた地でもあります。こういった石碑や資料から過去の出来事を想像し、思いを馳せる。自動車やバスだと何も知らずに通り過ぎてしまいますが、街を歩いてみると各所に歴史的なスポットを見つける事が出来るんです、博多の街って。
2000年以上の歴史があるといわれる博多の街。歩いてみると思わぬものを見つける事もあって、諸行無常、世の移り変わりを体で感じながらゆったりと博多を歩く。おススメです。
「節信院」
住所:福岡市博多区御供所町11-20
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