福岡の繁華街、天神4丁目にある勝立寺は西南戦争時の征討軍本営跡。西郷隆盛ゆかりの場所であり、兵庫県明石市を本拠とする国人領主であった明石氏の墓所もあります。
「勝立寺」は意外と見どころ満載のお寺なのです
福岡市の繁華街である天神に建つ鮮やかで立派な鐘楼が特徴のお寺「勝立寺」は、キリスト教との問答に勝利した唯心院日忠にキリスト教徒の居留地を下賜し、その地に建てられたお寺。”勝って立つ寺”という意味で、黒田長政の命により「勝立寺」と名付けられました。
また勝立寺は博多と福岡を隔てる川に面して建ち、博多からの入り口である桝形門の脇に建つ寺。門を守る軍事施設としての側面も持ち合わせた寺で、明治時代には西南戦争を討伐するために派遣された政府軍の「征討軍本営」が置かれた場所でもありあります。
ビルの谷間に建つ勝利を呼ぶ寺
勝立寺の山門と、特徴的な鐘楼。
天神のビルに挟まれるように建つ勝立寺、目の前は日銀の福岡支店。遠くからだと、ここに寺があるなんて誰も気付かないでしょうね。
江戸時代に描かれた勝立寺の図。
門の前には勝立寺を紹介する案内板が立てられていて、勝立寺を描いた絵がありました。絵を見ると、すぐ裏手に船が止まっていて浜のように書かれています。江戸時代はこの裏が海岸だったんですね。
境内には至る所にこのような石が建っています。日蓮宗のお題目を刻んだ石塔でしょうか。
歴史を感じる立派なお墓?供養塔?横に徳田久太郎という人の名前が刻まれていたのですが、ネットでは何も出てきませんでした。
寺の中には色々な石塔が立っているんだけれども、何が何なのか全く意味が分かりません。こういうものにも説明があるともっとお寺に興味が沸くと思うんですけど…まあ、見せるためにあるわけじゃないですからね。
境内から見る本堂、睨みつける顔のような彫刻があります。
建立時は小早川隆景が築城した名島城の本丸書院を移築して本堂としたそうですが、現在の本堂は新しいですね、昭和の建築だろうと思われます。
外から見えていた高台のような鐘楼、手前に五輪塔があるので誰かの墓だと思われるのですが。
鐘楼に上ってみました。目の前にある石造りの建物は日銀の福岡支店。
街なかにあるお寺なんだけれども、中に入ってみると見応えがあります。たまたまなのか、山門の横にある入り口が開いていたので中を見ることが出来ました。
福岡藩士「明石氏」の墓所、藩主黒田氏の親戚です
ズラリと並んだ墓石群、明石氏の墓所です。
お寺の裏手に回るとずらりと並んだ古いお墓、明石氏の墓所がありました。明石氏は播州明石郡を治めた国人領主、古代から戦国時代末期まで大名並みの力を持った国人でした。関が原の合戦で有名な明石全登は同族ではありますが、別家の備前明石氏になります。
播磨明石氏は鎌倉の頃から活躍した国人領主で、戦国時代の始まりと言われる応仁の乱では山名氏や大内氏と戦い戦功をあげました。戦国時代に入ってからは三好氏に従い、豊臣の世になってからは豊臣秀次を支えます。しかし豊臣秀次が粛清され、播州明石市は滅亡。一族の一部は黒田氏に仕えていたため、その血筋は福岡で受け継がれていく事となりました。
大きな墓石、明石氏は福岡藩でも重要な家柄だったのでしょう。
播磨の国、現在の兵庫県西部に勢力を誇った明石氏がなぜ福岡藩士になっていたのか。まず福岡藩の藩祖である黒田官兵衛孝高(如水)の母は明石氏の出であり、黒田氏も同じ播磨の国人領主でした。よって明石氏は官兵衛の母方の実家であり、その縁あってか一族が福岡藩に仕えていました。
この明石氏の墓所には日露戦争で活躍した「明石元二郎」陸軍大将の墓があるそうです。台湾総督を務めていた時に亡くなったため、やり残したことがあったためか遺体は本人の希望により台湾に葬られました。勝立寺には、遺髪と爪を納めた墓が建てられています。
明石元二郎大将は日露戦争時に反ロシア勢力を支援、ヨーロッパにおいて対外工作活動を指揮していました。日露戦争は日本の勝利と言われていますが、局地的には勝利したものの国力が全く違います。もし全面戦争、総力戦などという事になれば日本が勝つことはできなかったでしょう。そういう意味で日露戦争を日本勝利のままで終わらせるため、明石大将の役割は非常に重要だったのです。
征討総督府本営跡
お寺の端っこに建つ本営跡の碑
1877年(明治10年)西郷隆盛を盟主とした反政府軍による反乱、西南戦争が勃発。2月15日に西郷軍が鹿児島を出発、2月19日天皇から征討の勅が出され征討軍の派遣が決定。有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に任じ、福岡の勝立寺に本営を置きました。
この戦いは元薩摩藩士に元熊本藩士、中津藩士、福岡藩士なども加わった総勢3万とも言われる反乱軍と、有栖川宮殿下率いる帝国陸軍約7万が衝突した2018年現在で日本最後の内戦。新政府が編成した帝国陸軍もまだ装備が統一されておらず、緒戦で弾薬などの物資が不足。旧藩時代の武器を装備する兵士まで動員されたために、補給に支障をきたすなど混乱しながらも政府軍が勝利しました。
この戦いで政府は倍以上の兵力を動員しながらも、薩摩軍の戦死者とほぼ同数の被害をだすなど激しい戦いとなりました。帝国陸軍は3500万発の弾薬を消費し、薩摩軍1人を倒すのに2000発の弾薬を使用した計算になるそうです。平民から徴発された兵士と侍の戦いだったわけですが、薩摩軍が恐れたのは元藩士による抜刀隊だったとか。やはり生まれたときから戦いに備えてきた侍は強かったという事ですね。
戦いに勝つ!勝利のパワースポット
ビルとビルの間に挟まれた、勝立寺南側の門
勝立寺が建立された由来については先に書いた通り「勝利したことによって建てられたお寺」なんです。そのためでしょうか、南側の門の上に甲冑に身を包んだ仏様があります。
勝立寺南側の門に立つ毘沙門天
毘沙門天像の下に取り付けられたプレート
和風の兜をかぶっているので、どこかの武将かと思ったら下にあるプレートを見て毘沙門天だと分かりました。プレートに書かれている「Om vaisravanaya svaha」は真言宗の真言で「オンベイシラマンダヤソワカ」となり、毘沙門天のマントラです。上に居る像は毘沙門天だったんですね。
毘沙門天は四天王のリーダー多聞天のこと、説法の場を整える北方の守護神、財宝富貴を司ります。四天王にはそれぞれ守護する方位があって、北は多聞天(毘沙門天)、東を持国天、西を広目天、南は増長天なんですけど…まあ、小さなことは気にしない。
四天王の筆頭が見守るお寺、これは強そうです。
お寺の情報
勝立寺山門の向かい側に建つ日銀福岡支店、昭和26年に建てられた立派な建物だけど…壊すそうです。残念だなぁ
闘う仏様である四天王の仏像、日露戦争の勝利に貢献した明石大将の墓、内乱を勝利し鎮圧に成功した征討軍の本営、この寺に所縁のある事柄は全て勝利につながっています。ここはひょっとして、勝負事のパワースポットかもしれません。
天神を歩いていて寺を訪ねたら、西郷隆盛の西南戦争や日露戦争に繋がっていくとは…これだから街歩きはやめられないんですよ。
「勝立寺」
住所:福岡市中央区天神4-1-5
※この記事は私が訪れた時のものです、現状と異なる場合があります。最新情報、詳細はご自身で確認することをおすすめします。
勝立寺公式サイト⇒http://shouryu-ji.com
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