「西門通り」博多区の上呉服町を東西に横切る通り。この辺りは古い町並みが残る博多のレトロ地区です。
博多区にある西門通り、中世の城塞都市であった時代の名残である土塁跡
歴史ある町を歩きながら昔の姿を想像するのはメッチャ楽しいですよね。聖福寺や東長寺などが立ち並ぶ博多の寺町「御供所町」の北に隣接する上呉服町は、昔ながらの博多を感じるレトロタウンなんです。この西門通り(さいもんとおり)は聖福寺の西門があったことからつけられた名前、そして博多の街を守る土居(土塁)の遺構なのだそうです。
大博通りから向かった西門通りは、この博多三井ビルの脇から入っていく一方通行の道。
通りの入り口脇には、鎌倉時代頃の博多を描いたといわれる「博多古図」があります
ビルの角を曲がって真っ直ぐに伸びる西門通り。西から東方向、この道は江戸時代の地図にも描かれている古い道。
通りを少し入ったところ、町屋を改造したようなレストランがありました。
ランチメニューを見てみると、イタリアンのお店っぽいですね。女性に人気がありそうな、よくある古民家を改造したレストラン。
値段もお手頃だし、ちょっと入ってみようと思ったんだけども…やっぱ貧乏でダサい安川のような負け犬オヤジには敷居が高いかな、客は若い人ばっかりだったしね。スタッフもオシャレで意識高い系っぽい見た目、これは無理だ。
そしてその向かい側、コッチは年季入ってます。なんて読むんでしょう?「笑ん」という居酒屋さん。やはり古い町並み、古い通りにはこっちのほうがシックリくる。
下町っぽい町並みが続いています。左手の駐車場の向こう、いかにもぶった切りました!という建物。トタンを重ねて貼られた感じがなんとも前衛芸術的、いい味でてますよね。
またまたメッチャめちゃ雰囲気のあるお店を見つけました。「鴨猟理 まりも本店 」という鴨料理専門店。鴨料理はもちろんの事、ランチの皿うどんも人気のお店。
ランチは皿うどんしかないようで、この日はすでに売り切れていました。夜は鴨料理専門店。鴨は煮ても焼いてもウマい、いつか必ず来るぞ、覚えておこう。
この辺りは呉服商店街だったんですね。博多も駅周辺に大型商業施設が集中しているので、こういう路地の路面店は大変でしょう。
周りを見渡すと商店街としてかつての賑わいを感じさせるものの、残っている店は少く寂しいものです。
ここで広い通りにぶつかりました。西門通りと直角に交わる広い通りは「疎開道路」といいます。疎開道路とは、第二次世界大戦中に空襲による延焼防止用の空地として拡幅された道路の事です。周りの家を疎開させて道路を拡幅したため、疎開道路という名前が付きました。いわば、戦争遺構ですね。
この交差点の角に立つ電柱に、なにやら看板が取り付けられています。この看板は「はかた博物館」の一つで、博多の街全体を博物館と見立てて町の歴史を伝える案内板。電柱歴史案内2,000年プロジェクトという運動によって設置され、博多区内だけで100か所以上あります。博多を歩くときは、時どき電柱にも注意してみてください。
この看板によると、ここは博多防衛のために築かれた土塁の頂上ということですね。石築地、現在でいうところの元寇防塁跡が博多小学校の地下に埋まっているので、海岸線での上陸阻止に失敗したらここまで後退して防衛する構造になっていたという事なのでしょう。
この看板によると東西900メートル、高さ7メートル、断面は台形で下底25メートル、上底8メートルという巨大な土塁だったんですね。更に堀まで備えていたとの事なので、かなり強固な防衛ラインだったと考えられます。二度目の元寇となった弘安の役では、徹底した上陸阻止戦闘により元軍は博多湾に釘付けにされたそうです。鎌倉幕府軍の善戦により元軍は各地で撃退され、上陸することが出来ませんでした。結果、元軍は2か月間海上をさまよい続けたあげく、援軍との合流を図るも嵐にあい壊滅しました。
よく神風で助かったなどと言われますが、当時の鎌倉幕府軍は元軍を徹底的に打ち破っています。博多へ上陸出来ない元軍は、志賀島を占領して陣を敷きます。しかし、海の中道と海上からくる鎌倉武士団の徹底したゲリラ戦術の前に敗走。志賀島の戦いでは、敵船に乗り込んだ伊予の御家人・河野通有が敵将を生け捕るなど手柄を立てています。鎌倉幕府軍に完膚なきまでに痛めつけられた元軍は、神風と言われた嵐が無くてもいずれ撤退を余儀なくされていた事でしょう。教科書では元軍に日本は苦戦したと書かれていますが、実際にはかなり一方的にやっつけていたようです。
実際にはこんな直線じゃなかったと思うのですが、当時の地形がよくわからないため参考に元寇防塁があったと思われる付近に線を入れてみました。
この坂は当時の土塁の名残でしょうか、海岸近くの平地なのに不自然ですよね。
坂のしたから西門通りを見ると、かなりの高低差。これが土塁の跡。
西門通りに戻り、疎開道路を渡ると将軍地蔵がありました。
近くの富士見坂という場所に建っていたものがここへ移されたそうですが、富士見坂というのは芥屋富士が見えたのでついた名前だそうです。芥屋富士といえば、そう、糸島市の芥屋にある山です。
昔ながらの道に唯一といっていいかもしれない、見事な町屋が残っていました。西門通りでひときわ目を惹く建物、国の登録有形文化財の「吉住家住宅主屋」です。
昭和4年に建てられた町屋の造り、こんな家が沢山残っていれば今ごろは観光地として賑わったんでしょうけど。
博多西門通りに北面する。間口五・五メートルの二階建。渡り廊下を介して台所棟を背面に付設。いずれも切妻造桟瓦葺。二階に座敷、一階に通り土間と仏間等を設ける。正面に庇を付け、二階に格子戸をたて、一階を全面ガラス戸とし、近代的な町家構えをつくる。
文化財オンラインより
間口を狭く、奥に長い町屋の造り。背面の台所棟など、奥へ建物が続いている様子がよくわかります。
西門蒲鉾店がありあました。大正2年創業という老舗です。
さて、いよいよ西門通りも終点に近づいてきました・・・と、なんじゃこりゃあ!見事にぶった切られた建物。これはスゴイ。
この切られて薄っぺらくなった建物、人は入れるのでしょうか。
横から見ると、このトタンの色使い、そして錆び、屋根に生えた草の緑、これはもはやアートですよ。現代的な調和のとれた外観に対して、この実用性一辺倒、後は知らん!という無造作な感じ。色の違いや錆び、無機質な壁面と古い木造部分が融合している。
こういうのがあるから町歩きはやめられないんですよ。
ここは西門通りの東端にある西教寺。この西門通りから見て一番後ろの棟、凄い切られ方ですね。半分に真っ二つですよ。
西門通り側から西教寺に入り、境内を抜けて山門から出ると博多で一番古い通り「普賢堂通り」。他にもいくつかのお寺が密集する寺町になっている、博多のレトロゾーン。
そして西門通りの終点「西門橋」に到着、この橋は江戸時代の城下町図にも書かれている橋。
橋のたもとに旧町名の石板がありました。
ん?
橋の下に降りる階段がありますね。
なんとなく、下まで降りてしまいました。
何も知らずに歩くとどこにでもありそうな通りなのですが、過去の歴史なんかを考えながら歩くととっても楽しくなります。ここが防衛施設であったなら、実際に戦いは起こったのだろうか。とか、土塁のうえから堀を超え海まで見渡せたはずですから、どんな景色が広がっていたんだろう?とか、芥屋がこっからみえたのか~とか考えていると、どんどん想像の中で過去の博多をイメージして妄想が膨らんでいきます。
土塁の南側に大きな寺が集中しているのも、屯所として使う事を意識しての事でしょうし、かなりの兵力を町の中に駐屯させることが出来たんでしょう。城はなくとも城塞都市として、強固な軍事都市だったんだなぁと、博多の新しい側面を垣間見る事が出来ました。
「西門通り」
場所:福岡市博多区上呉服町
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