1999年に博多リバレインが出来るまで残されていた、貴重な歴史遺構「博多大水道」の痕跡を探してきました。
鎌倉時代に築かれた巨大な堀
中世の博多を研究し、その結果を歴史ファンに分かり易く解説してくれている本は非常に少なく、そもそも江戸時代以前の博多について研究している人がほとんどいないためか古くから栄えた重要な貿易港としての実像はほとんど見えてきません。博多の歴史を解説する書籍は、殆どが貿易港としての機能を失い外様藩の城下町として数ある地方都市の一つになってからの博多しか紹介していません。てか無駄に山笠が絡むから、流とか山笠に興味がない人にとって、とてつもなく分かりにくい。そんななかで中世博多にスポットを当て研究しておられる佐藤鉄太郎氏が著した「元寇後の城郭都市博多」は、中世博多の町がどのような都市であったのか、その姿を具体的に記している数少ない書籍の一つ。
鎌倉時代に幕府が整備した博多とはどんな町だったのか、通説を覆す様々な分析結果から導き出された中世博多の姿。今回紹介する博多大水道も、そんな鎌倉時代に存在した城郭都市博多の遺構でした。
博多大水道は巨大な堀だった
中洲川端駅の目の前、博多リバレイン
福岡市営地下鉄の中洲川端駅、その駅前には駅と直結した巨大な商業施設「博多リバレイン」と歌舞伎の舞台で有名な「博多座」が建っています。この場所にはかつて、博多大水道という博多の町を東西に貫く水路が通っていました。その一部は1990年代後半まで石垣と共にこの場所に残っていたのですが、博多リバレイン建設時に埋められてしまいました。
川端の大水道と書かれた博多大水道跡のモニュメント
博多大水道のモニュメントに書かれた大水道の説明
明治13年から大水道に蓋をする工事が進められ、暗渠で塞いだ上に幅一間半ほどの歩道ができ「川端真道」「片土居新道」と呼ばれました。その後、道の両側が商店街に発展。大正時代に「寿通」と改名しました。と書かれていますね。で、博多の先人たちが1990年代後半まで数百年間守り残してくれていた大水道を壊してリバレイン博多と博多座が出来たわけです。
この博多を東西に貫く博多大水道、新聞の発表など通説では袖の湊の名残りで、江戸時代の下水跡ではないかと言われています。しかし水路自体は江戸時代より古い時代から存在しており、いつ頃完成したのか明確になっていません。そもそも袖の湊が本当の港として実在したのかさえ定かでなく、あったとしてもこの場所だったのかも不明です。この大水道について詳しく調査分析し解説されているのは先に紹介した佐藤鉄太郎氏の著書「元寇後の城郭都市博多」でありまして、佐藤氏によるとこの水路は鎌倉時代に海岸からの侵攻に備えて作られた堀であるとのこと。
この記事は佐藤鉄太郎氏の説を元に、博多大水道の跡を紹介していきます。
博多と中洲の間を流れる博多川、左が中洲、右にリバレイン博多。
博多の町は東を御笠川(石堂川)、西を那珂川に挟まれています。博多大水道はこの御笠川と那珂川を結ぶように掘られていた水路で、ちょうどリバレインの横で那珂川の支流である博多川に流れ込んでいました。
川端大水道とかかれたモニュメントも、リバレイン脇の博多川河畔にあります。
博多大水道の想像図、鎌倉時代の町割りに沿って作られています。画像はGoogleマップを加工したもの。
博多大水道の位置は聖福寺の伽藍、勅使門から西へ続く鎌倉時代の基軸線から正確に三町(1町109m)の距離を置いて平行に掘られています。基軸線に直行する聖福寺山門から海へと続く大通りから二町半那珂川方向へ進んだところで直角に海の方向へ曲がり、1町半の距離にある綱敷天神の前で那珂川方向へ直角にカーブ。堀を鍵状にすることで横矢掛けになり、防御力を高めています。基軸線から遠い水路は聖福寺の基軸線から4町半の距離で並行し、那珂川の支流である博多川へと繋がっています。鎌倉時代の街並みは聖福寺の基軸線から半町単位で区切られているので、大水道は鎌倉時代の町割りに見事に準拠して掘られていたことが分かります。
この事が大水道は鎌倉時代に掘られた最大の根拠とされていて、さらに堀の内側には土塁(土居)が築かれていたために堀の内側に土居という地名が残っています。土居町は袖の湊とされている場所に、波除の土手があったから名付けられたというのが定説となっていますが、博多周辺は砂浜であったため波除の土手はありません。聖福寺に残る中世に書かれた絵図でも全て自然の砂浜になっているので、この土居という地名はここに土塁があった事を表しています。そしてその土居という名前が出て来るのは鎌倉時代直後なので、地名になっているという事はその前から存在していたことになる。
つまり鎌倉時代に築かれた土塁であるという事。
リバレイン博多建設に先立って行われた発掘調査時の写真。博多68より引用
博多大水道は江戸時代には水路として残っていましたが、次第に埋め立てられて姿を消し、最後まで残っていたのが現在リバレイン博多と博多座が建っている場所。明治時代に暗渠で塞がれ、商店街になっていました。
リバレイン建設に先立って発掘調査が行われた際には、江戸時代の姿をそのままにとどめた博多大水道が姿を現しました。さらに調査を進めていくと大水道が整備された時期は大きく3期に分けられ、古い層では室町時代から安土桃山時代頃までの出土物が見つかっています。
博多大水道の最も古い層から見つかった木杭の画像。博多68より引用
さらに最も古い層からは石積みと共に木の杭が規則的に打ち込まれた水路が発見されました。調査報告書によると博多の海岸部分、護岸設備の跡とされていますが佐藤鉄太郎氏はこれを逆茂木など防御設備の痕跡と説明しています。
写真を見る限り斜面が崩れるのを防ぐために打ち込まれたように見える物もありますが、護岸であれば一直線ではなく凹凸があるはずで直線的に規則正しく並ぶのは不自然。なので堀が崩れるのを防ぐと同時に逆茂木や乱杭も存在していたのではないかと思われます。
実際に鎌倉時代に河口などへの侵攻を防ぐために逆茂木や乱杭の工事を実施したという書類が現存していて、同じように初期の大水道が堀であれば防御のために木が打ち込まれていたはずなのです。堀と土塁と乱杭の組み合わせというのは吉野ケ里遺跡など古い遺跡からも見つかっており、古代から中世までセットで構築される事が一般的でした。
土塁が築かれていた博多区上呉服町の西門通りから博多大水道方向へ、かなりの高低差があります。
博多大水道がある場所はちょうど博多の最も低い部分、博多の中心部があった場所から斜面を下った先端部に掘られ、博多大水道の後方半町の距離にある、傾斜を上りきった場所には土塁が築かれ堀を越えて侵攻しようとする敵を迎え撃つことが出来ました。
海岸である沖の浜には元寇防塁が築かれ、そこを突破された後に迎え撃つために構築された防衛線。鎌倉時代の博多は博多湾に面した海岸部である沖の浜で元寇防塁に拠る上陸阻止戦闘を行った後、沖の浜を放棄して後方の防衛線に籠って敵を撃退することが出来るように作られています。その土塁と堀があった博多先端部へと続く傾斜は現在も西門通りに残っています。
西門通りを紹介した記事↓
佐藤鉄太郎氏によると鎌倉時代の博多は河川工事によって東西を川で隔て、沖の浜の海岸線には元寇防塁の整備、その後方に博多大水道の前身となった堀、さらに西門通りの土塁、町の南側には房州堀の前身となった堀を築き、四方を水に囲まれた博多城ともいえる城郭都市へと姿を変えていたのです。
という事で今回はその城郭都市の一部、博多大水道の跡を歩きます。
博多大水道の痕跡を探して歩く
博多大水道の西端部、博多川河畔のモニュメント。
スタートはここ、リバレイン博多の横にある大水道のモニュメント。鎌倉時代には中洲が存在していなかったため、この辺りは海に面した砂浜でした。
リバレイン博多と鏡天神。
鎌倉時代の海岸部は砂浜と松林になっており、そこには人間や牛、馬などの死体が遺棄されました。そういった死体の供養、埋葬、牛や馬は解体して皮を加工するなどしたために特殊な技能を持つ人たちが居住し、それらを取り仕切っていた「称名寺」という寺が立てられました。その場所がまさにここ。幕府から特別な利権を与えられていた寺です。
大水道は称名寺の南側にありました。
博多座の横から東へと続いて行く道、博多大水道の跡です。
博多川から東へと続く博多大水道、発掘調査が行われた部分は完全に建物の下。水路跡を見つける事は出来ないのでリバレイン博多と博多座をパスし、そのまま博多座の東側に抜けると博多大水道の跡が道路として残っています。
この辺りは博多大水道に暗渠を被せ道路とし、寿通商店街と呼ばれていました。今は博多座とリバレイン博多によってほとんどが失われ、角にレトロな建物が数件残るのみとなっています。
博多座の東側外壁
ちょうど上の写真が寿通商店街があった場所、博多大水道が流れていたはずの場所です。いまでは武骨なコンクリートとタイルの建物になっています。
リバージュ通りと名付けられた博多大水道の跡
博多座の東側、旧寿通商店街跡から東へと真っ直ぐに続く道。ここが博多大水道の跡、今はリバージュ通りというオシャレな名前が付けられています。かつては暗渠がかけられ大水道はこの下に残っていましたが、今はマンホールなどもあるため大水道は埋め立てられたものと思われます。
綱場町にある綱敷天満宮、ここで博多大水道は直角に向きを変えます。
博多大水道の跡であるリバージュ通りを歩いて行くと、地名が綱場町へと変わってすぐの場所に綱敷天満宮という天神さんがあります。ここは大宰府へと落ちていく菅原道真が立ち寄った場所。
博多大水道はこの綱敷天神の南側を通って、東の角で直角に向きを変えます。現在の綱場天神は南側に鳥居、本殿が北という配置になっていますが、かつては東に本殿、西に鳥居という配置で現在よりも大きな神社でした。
綱場天神の紹介記事↓
綱敷天満宮の先にはこんなレトロな場所があります。
博多大水道は方向を変えますが、そのまま綱敷天満宮の前を直進するとこんなレトロな露地があるので見学におススメ。
このレトロな横丁の紹介記事↓
綱敷天満宮の斜め向かいにあるレトロなビル大生館。
綱敷天満宮の前に戻り、ちょうど斜め向かいに建つ大生館というビル。これもかなり昭和の香りをまとっているんだけれども、ちょうどビルの横に脇道のような道路があります。この道が博多大水道の跡です。
博多大水道の跡、ここを水路が流れていました。
博多大水道が通っていたであろう地点で脇道に入ってみると、これはいかにも…といった雰囲気の道。ここは土居通りと西町筋の間にある小路。水路は埋め立てられたんでしょうけども、この下には博多大水道の遺構が埋まっているはずです。ここから一町半、約170メートル直進します。
途中で天神から県庁へと抜けていく福岡市のメインストリート明治通りに出ました。このまま渡って先へと進みます。
明治通りを渡って博多大水道の跡を辿っていきます。この先で左へ直角に曲がります。
綱時期天満宮の前から直角に曲がり、海と逆方向、内陸部へと歩いて行きます。途中で天神から県庁へと続く福岡のメインストリート明治通りを横断し、更に先へと歩いたところで左へと直角に曲がります。
博多大水道が直角に曲がったと思われる地点。
正確にどこで曲がったのかが分からないので、凡その場所に来てみました。この郵便局辺りから御笠川方向へ直角に大水道が曲がっていたと思われます。
博多区店屋町、博多渡辺ビルの前に建つ楊ヶ池神社跡の碑
祇園町にある人魚伝説で有名な龍宮寺
博多大水道は楊ヶ池神社の南側を通って御笠川方面へ流れていたとのこと、楊ヶ池神社は現存していませんが跡地に石碑が建てられています。この楊ヶ池神社は現在祇園町にある龍宮寺があった場所であり、人魚伝説はこの地に伝わるものだったんです。さらに博多の守護神である三宝大荒神も龍宮寺内に祀られ、博多の人々からの信仰を集めていました。
龍宮寺を訪れた時の記事はコチラ↓
今は大博通り沿いにひっそりと建つ龍宮寺ですが、かつては博多を代表する祈祷所だったのです。
鎌倉時代の堀は龍宮寺の南側を通っていました。
楊ヶ池神社、龍宮寺があったと思われる場所は、現在紙屋町パーキングと博多渡辺ビルになっています。パーキングの辺りで通りを右から左へと流れていました。
大博通りと地下鉄呉服町駅
さらに博多大水道跡を追っていくと博多駅から海へと続く大通り「大博通り」にでました。正面に見えているのは地下鉄呉服町駅。この駅の少し南側から大博通りを横切って更に大水道は続きます。
呉服町駅から海へ向かって少し歩くと、正面に蔵本という交差点があります。
博多大水道から海へ向かって二町半(約290m)の場所に石築地(元寇防塁)が築かれ、鎌倉時代はここが博多湾、沖の浜の海岸線。第一の防衛線で、上陸阻止地点です。上陸してくる敵に対して上陸阻止地点で上陸直後で無防備な敵を攻撃、出来る限りの損害を与えた後に後方に構築された本格的な防御陣地で敵を撃破する。これは対上陸部隊に対する防衛戦では常道ともいえる戦術。
博多の町は上陸阻止地点に構築した防塁を築いた陣地で十分な損害を与えたのちに、博多大水道の前身である堀と現在の西門通りに築かれた土塁で守られた強固な防御陣地で敵を撃破する。非常に堅固な防衛線を敷いていました。理にかなった防衛機構です。
ちなみに、沖の浜に築かれた防塁は現在も一部が保存され見学できます。
沖の浜に築かれた防塁の遺構を見学した記事はコチラ↓
博多区上呉服町の本岳寺
同じく博多区上呉服町の入定寺。
左に本岳寺、右奥に入定寺。間を通るこの道が博多大水道の跡。
綱敷天満宮の前で直角に曲がり、続いて店屋町の楊ヶ池神社付近で御笠川方面へ方向を変えた博多大水道。その先は博多の開発が進み、大水道の跡は殆どが建物の下になってしまい痕跡を残していません。実際に跡地を辿るのも難しい状態、次に大水道の跡を見ることが出来るのはちょうど御笠川に注ぎ込んでいた最後の場所。上呉服町にある本岳寺と入定寺の間にある狭い道路です。
本岳寺と入定寺の記事はコチラ↓
博多大水道のもう一方の終点である御笠川
博多大水道が川に流れ込んでいた場所をみるも、痕跡は何も残っていませんでした。
御笠川から博多大水道跡を撮影。正面には大きなマンションやビルが見える。
博多大水道の痕跡を辿る旅、いよいよ終点に辿り着いたわけだけれども、それらしい場所に道路が続くだけでそれ以外の痕跡を見つける事は出来ませんでした。実際にこの大水道が作られた当時、堀として機能していた時の幅はいかほどであったのか、深さはどうだったのか。全くの謎なうえにそもそも本当に堀だったのかどうかすら定かではありません。
ただこうやって実際に歩いてみた現地の状況と、参考にした書籍で記された事柄を照らし合わせると、なるほど理にかなっていると思わされます。元寇防塁を最前線に築き、石城と言われた寺をその外側に配して上陸阻止の為の防衛線を構築。さらにその後方に堀を設け、堀の半町後方に土塁を備えた防御陣地を構築し、重要なポイントには寺や神社を配して要塞化する。元寇の再来に対する鎌倉幕府の備えは万全でした。
鎌倉時代に存在した中世の城郭都市。幕府の本拠地である鎌倉は総構えの城のように堅固な城郭都市になっていますが、日本の対外戦争の最前線である博多も同じように整備していたとしたら…考えただけでも面白いですよね。
これからも城郭都市博多、追いかけていきたいと思います。
軍事と商業の中心地、城郭都市博多
歴史というのは真実は誰にも分からないわけで、様々な資料や現場に残る痕跡、現地に残る地名、地形などから推測して結論を導くわけです。なので一つの事柄でもいくつかの説が生まれ、どれもが正解であり不正解でもある。そんな中で博多の中世史というのは謎に包まれた部分が多く、これだけ古くから有名で栄えた都市であるにも関わらず文化財や史跡などの遺構が驚くほど少ない。最も栄えた黄金期ではなく没落して外様藩の一地方城下町になり、更にその一部になってからの歴史が大きく取り上げられる。
また中世の博多を記した書籍も乏しく、まったく実像が見えてこない。そんな中で少しでも博多の歴史に触れたい、貿易都市として輝いていた時代の博多がどんな姿をしていたのかを知りたい。研究者でもなんでもない素人ですけどね、素人なりに調べて自分の中で納得のいく博多像をこのサイトを通じて他の人たちと共有していきたいと思います。
興味を持って頂けたら時どき訪れてもらうと嬉しいですね。とにかくフルタイムで働く中卒の非正規労働者ですからね、時間が無さ過ぎて出来る事は限られるんだけれども…貧乏なので休日に日雇いバイト始めようかと真剣に悩んでいるくらいですからw
とにかく楽しく博多を探索していきます、乞うご期待。
※この記事は筆者の主観に基づいたものです、正確性を保証するものではありません。
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