博多の町から中洲へ渡った先に、なんともいわくありげな地蔵堂があります。気になって覗いてみると、江戸時代に起きた大飢饉の犠牲者を供養するお地蔵さまでした。
享保の大飢饉の犠牲者を供養する地蔵尊
博多の町を歩いていると、橋を渡った先、中洲の東側に立派な地蔵堂が見えたので立ち寄ってみました。中にある地蔵の由来が書かれた看板を見てみると、江戸時代中期、1732年(享保17年)に起こった享保の大飢饉によって博多の町で多くの人が犠牲になり、その数は当時博多に住んでいた住民の約3分の1にあたる約6000人が犠牲なったこと。その遺体を集めた場所に地蔵尊が建てられ供養されたこと、そしてその地蔵尊が目の前にある川端飢人地蔵尊であるという事を知りました。
櫛田神社から西へ、中洲へと渡った所にある地蔵尊
中洲と博多の間を流れる博多川
川端飢人地蔵尊があるのは櫛田神社から西方向、ちょうど川端商店街のアーケード前から中洲へと渡ってすぐの場所。
昼の中洲は人も疎ら
博多最大の歓楽街、夜は多くの人で賑わう中洲の町。昼間はひっそりとして人通りも少ない場所、そんな中に立派な地蔵堂が建っています。
川端飢人地蔵尊の地蔵堂
いかにもいわくありげな地蔵堂、今から300年ほどの昔から大切に受け継がれてきたお地蔵様。今も地域の人に大切に守られ、飢饉の死者を弔うための大祭「施餓鬼供養」が毎年8月23日~24日にかけて行われています。
川端飢人地蔵尊、地蔵堂の内部
中に入ってみると真ん中に地蔵尊が祀られ、その横にも石仏が並び石塔が建てられています。窓の横には「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」という地蔵尊の真言、お地蔵さまにお参りするときに唱える言葉です。
飢人地蔵尊の由来
道内の壁に飢人地蔵尊の由来が書かれていて、この場所はかつて上川端町と東中須を繋ぐ水車橋という橋が架かっていたそうです。そして享保の大飢饉によって亡くなった方の遺体を集め、葬った場所に後の人が地蔵尊を建て、毎年八月二十三、二十四日に施餓鬼供養が行われているとういう事が書かれています。
さらに読んでいくと享保の大飢饉は徳川将軍吉宗の時代、虫害、干害、水害、疾害の総攻撃を受け、餓死者の数は全国で264万5千人、筑前で9万6千人、博多では人口の約3分の1にあたる6000人にものぼったそうです。
各地に残る飢饉の供養塔
博多区大博町にある享保の大飢饉の犠牲者を弔う供養塔
この享保の大飢饉は1732年(享保17年)だけでなく、翌1733年(享保18年)も不作によって2年連続での飢饉となり本当に多くの人が犠牲になったようです。そのため中洲にある川端飢人地蔵尊以外にも各地に供養塔などが残されています。
主な享保の大飢饉による犠牲者を弔う供養塔や地蔵尊
【福岡市西区】上原の六地蔵、今宿・徳正寺の地蔵、東松原の地蔵堂
【同市早良区】祖原・顕乗寺の地蔵堂、西の地蔵、野芥の地蔵
【同市中央区】桜坂の地蔵、大手門・浄念寺の供養塔、地行・圓徳寺の地蔵
【同市博多区】萬行寺の无縁塔・餓死塔、大浜の供養塔、栄町の地蔵堂、東中州の地蔵堂
【同市東区】箱崎一光寺の供養塔
【大野城市】乙金の枯骨塔、山田・慶伝寺の倶会一処塔
福岡市に飢饉の供養塔が集中しているのは飢餓に苦しむ人々が続々と城下に集まり、福岡や博多で死亡したためだと言われているそうです。
今はよほどの事がない限り飢えるという事がなくなった時代ですが、かつてこの地で多くの人が飢えに苦しみ亡くなっていきました。飽食の時代なんて言われることもある現代ですが、その食料も多くは輸入に頼っているうえに、国内で自給できている野菜なども人口の減少に伴う農業の衰退により今後どうなるのか分からない時代。改めて食というものについて考えるべき時が来ているのかもしれませんね。
地蔵堂の場所
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。当たり前だと思っていたことが、突然の状況変化で崩れ去ってしまう。そんなことは歴史の中で何度も起きている事。「平時において乱を忘れず」という言葉にある通り、人口の減少によって先行きが悪くなるしかない「乱」が待ち受けている日本。現状をどう生きるかも大事ですが、過去の出来事から学び、未来の自分は自身で守るという自衛の覚悟と備えが必要な時代なのかもしれません。
「川端飢人地蔵尊」
住所:福岡市博多区中洲2-8-33
大博町の供養塔は下記の記事内で紹介しています。
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