ういろう発祥の地として有名な博多御供所町のお寺、山門から続く寺内の通りと裏に建つ古い建物が印象深いお寺でした。
「妙楽寺」ういろう発祥の地とも言われる博多のお寺
福岡で寺町といえば博多区の御供所町。数多くの寺院が密集する地域で、観光スポットとしての人気も高い場所です。そんな寺町に存在するお寺の中から、今回は墓地からみた裏の建物が凄まじい存在感を放つ「妙楽寺」です。え?寺が凄いんじゃないのかって?
たしかに寺院として綺麗に整備されていてとっても魅力的なのですが、それと同じくらいに寺院の裏に建つ建物が凄かった。いくつか周った寺の中で一番印象に残ったので、とにかくどんな場所だったのかレポートします。
妙楽寺へ行くには、まず市営地下鉄空港線「祇園駅」の御供所町側、東長寺門前にある出口からスタートします。目の前は大博通りの祇園町交差点。
祇園交差点から東方向へ歩いて行きます。
途中にあった居酒屋…でしょうか、博多にはこういう味のある建物が多いんですよね。「楽天地」ってネーミングが昭和、レトロな雰囲気がいいですねぇ。
楽天地を過ぎてしばらく歩くと、左へと曲がる道があるので左折。
この界隈には鎌倉時代当時、鎮西探題という鎌倉幕府軍の駐屯地兼行政機関がありました。博多は海岸線に石築地(防塁)を築き北と南に堀や土塁、東西は川という惣構えの城塞都市だったそうです。寺は屯所や陣として利用される城郭と並ぶ軍事拠点ですから、ここにある寺ももちろん有事には軍事拠点として機能したのでしょう。
少し歩くと右手に妙楽寺がありました。ちょうど東長寺の裏です。
旧町名の石碑が建っています。博多区内の旧博多市街地域には、このような旧町名の案内が建てられているので探してみるもの楽しいかもしれません。
この場所は御供所町と言い、東区にある筥崎宮の供え物を調(ととの)えた事が名前の由来とか。
こちらがお寺の説明。現在の博多小学校(奈良屋町)あたりが海岸線で、石築地という今でいう元寇防塁が築かれていました。妙楽寺はもともと石築地があった海岸線に建てられていて、山号を石城山と言います。博多区には、妙楽寺があった場所付近に石城町とう地名が残っています。門前町もあったとの事なので、かなり大きなお寺だったと思われます。
海岸を見下ろすように石塁上に建てられて、石城山なんて通称が付いていたくらいですから、外交使節の宿泊所としてだけでなく沿岸防衛の拠点、屯所としての機能もあったと思われます。
江戸時代に描かれた妙楽寺の絵が紹介されています。この地に移転された後の絵ですが、今もそのまんま、江戸時代の姿を留めています。壁や建物の補修や改修はあったでしょうが、通路や建物の配置がほぼ同じなんです。
山門をくぐると、真っ直ぐに続く道。上の写真と見比べてください、入り口からいきなり「そのまんまやんけッ」とツッコみ入れそうなほどそのまんまです。これはすごいなぁ、中世にタイムスリップしたような場所。時間の流れも、門をくぐった瞬間にゆっくりになった気がします。
門が閉じられていて見に行けないのが残念ですが、脇にはいかにも古そうな建物。
真っ直ぐ進んでいくと、江戸時代の絵と同じ場所に建つ鐘楼。これも古いですよ。
とても古そうな博多塀が残っていました。櫛田神社や楽水園にある博多塀は後から作られた観賞用のように見えますが、この博多塀はとても古くて当時の姿そのままに近い気がします。そもそも博多塀というのは豊臣秀吉の九州征伐時に戦後復興の資材不足を補うため、戦火で焼け落ちた家の廃材などを使って作られたもの。この壁には割れた瓦などが使われていて、当時の姿をリアルに残しているんじゃないでしょうか。
別の場所にも博多塀があったのですが、先ほどのものとは随分と違います。とても綺麗で、瓦や石がデザインされたように埋め込まれています。ハッキリしたことは分かりませんが、作られた時代が違うと感じるのは安川だけなのかな。
ずらりと並んだ石仏。
「ういろう伝来の地」と書かれた石碑。ういろうの発祥は大きく二つの説があり、博多と、もう一つは京都だそうです。
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも見られる、色(黒色)が外郎薬(透頂香)に似ていることから「外郎(ういろう)」と呼ばれる菓子になったという説
wikipediaより
という事なので、発祥地不明。いずれにしても、はっきりコレ!という事は出来ないようです。というか、どっちでも良いんですけどね。いずれにしても博多で”ういろう”はあまり食べられてません。現代の名産地は名古屋だし、ういろうは名古屋で良いんじゃないかな。
ういろうの発祥かどうかはおいといて、というかもはやどうでもよくて、このお寺の魅力はなんと言っても壁と、古い建物が立ち並ぶ寺内の風景なんですよ。
昔の姿を今に残す美しい寺内、江戸時代の人たちもほぼ同じ姿を見ていたんじゃないでしょうか。過去に思いを馳せて、どんな人たちが歩いていたんだろうと妄想しながら歩くのが面白い。脇からふと、二本差しの侍が出てきそうじゃありませんか。
そこへなおれっ!とか言われたら怖いけどね。
さぞかし本堂も立派なんだろうな~と楽しみにしていると・・・非公開です、残念!
観光マップに載せておいて一般の拝観を受け付けないとか…博多の寺は立ち入り禁止場所が多い。庭を自慢にしているくせに一般は入れない某寺とか、聖福寺もそうだったし。まあ、お寺にはお寺の事情があるのでしょう。
それなら観光スポットとして紹介しなければいいのに、期待して行ってしまうじゃないですか。
この奥に、かなり大くて立派な本堂があるはずなんですがねぇ。残念。
本堂の前を通過して、ぐるっと回っていくと墓地が広がります。ここには戦国博多の豪商「神屋宗湛」のお墓もあるのだとか。神屋宗湛は豊臣秀吉を支えた商人で、戦国末期の博多を語るうえでもっとも有名な博多商人です。豊臣家の滅亡とともに没落、それでも福岡藩黒田家の御用商人になったそうです。その他にも黒田家家臣の墓が沢山あるという墓地。
という事で墓地へ入ってくと・・・なんとそこには大迫力のレトロな建物が!土地を目いっぱいに使って、キチキチですよ。今じゃ考えられない建て方です。
見てくださいよ、この増築に増築を重ねました!というような複雑な構造。これにボイラーの配管なんかが外部に露出していたら、スチームパンクのアニメ出てきそう。この建物が墓地の背景になっていて、コントラストが素晴らしいですね、正面からも見てみたい。
コッチ側は極端に窓が少ないですね、工場というより倉庫でしょうか。奥のほうに見えるメッチャ高いレンガ積みっぽい壁が凄い。
これホンマにあれですよ、写真やからチャチに見えてますけど、実際見たら結構な迫力です。しかもこの古さ。大きくてレトロな外観が、思わず息を飲む寂びの景観。
ということで、この建物を正面から見に行くことにしました。来た道を戻って山門へ。
しっかしこのお寺、中はまるで中世の世界を再現したジオラマの中に入ったみたいです。何度も言うけど本当にきれいで、当時の雰囲気をそのまま感じる事が出来る貴重な場所です。
右奥に見えてる朱色の建物は東長寺。
門を出てそのまま右へ向かいます。すると、スグに見えてくるのがこの交差点。ここを右折、路地へと進みます。
この道をひたすら道なりに直進します。寺町の路地ですから、ひょっとしたらこれも中世の小路の一つでしょうか。
道中にとてもレトロな家を発見。そしてこの鍵状に曲がる直角カーブ、中世の街によくある道ですよね。敵に真っ直ぐ進ませない事と、先を見通せないようにするための防御機構。古い道っぽいね、この形をみたらますますそう思います。
直角カーブを抜けてしばらく歩くと・・・ありました!ここです、間違いない。正面から見ても、すんごいレトロで男前な建物です。
向かい側には長屋がありました。昭和ですね、これで道路が舗装されてなかったら昭和30年代みたいな風景。
視線を戻して、妙楽寺墓地の裏にあった建物。古い建物ですけど、痛みはほとんどありません。どうやら現役で使われてそうですね。
住所はコチラ、御供所町10-31
見事な木枠のサッシ、これはシビレル。とても保存状態が良いですね、立てられたのはいつ頃だろ。こんな貴重な建物が残っている割には、観光ガイドには何も紹介が無い。
シャッターはかなり新しいので、やはり現役のようです。古い建物をそのまま使ってる会社ってすごいですよね、維持するだけでも相当な費用や手間がかかりそうです。なんとかこの建物が長く存続できるように祈るばかりです。
福岡に引っ越してきて天神にはよく行ってたんですけど、博多はあまり来る機会が無かったんです。しかし実際に街を歩いてみると、さすが古都ですね。とっても日本情緒あふれるレトロな空間がアチコチに残っています。
博多の町歩きはとっても楽しいですね、歩くたんびに新しい発見があります。
という事で博多の寺町「御供所町」にある妙楽寺と、その裏手にあるレトロな建物でした。
「妙楽寺」
住所:福岡市博多区御供所町13−6
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