福岡の各地に残る天神様、大宰府へ向かう菅原道真公の足跡。ここもそんな場所の一つ。
「水鏡天満宮」街なかのオアシス的な鎮守の森、福岡城の鬼門を守る神社
福岡市の中央区、九州最大とも言われる繁華街に残る菅原道真の足跡。菅原道真は京都での権力争いに敗れ九州大宰府に左遷されたんだけれども、もともと京都でどれくらい偉かったかというと、当時の官職(役職)で右大臣にまで出世した人なんです。右大臣と言えば天皇家を除いて最も偉い人3公の一つで、右大臣、左大臣、太政大臣という大臣職の一つ。トップの太政大臣になった人で有名なのは豊臣秀吉、右大臣になった人だと織田信長や徳川家康がいる。普段は公家の官職だけど、時の権力者でトップを極めた人がなった事もある。逆に言えばそれくらい偉い人が就く官職なんだという事。
ちょうど福岡天神にあるアクロス福岡の筋向いに建つ神社、もとは「容見(すがたみ)天神」と呼ばれもう少し南にありましたが、1612年に初代福岡藩主黒田長政によってこの地に移されました。
この場所は福岡城から見てやや北よりの東の方角、鬼門を守護する神社、福岡の守り神として移設されたといいます。
水鏡神社として説明が書かれていました。博多に上陸した菅原道真が四十川(現在の薬院新川)を水鏡として姿をうつした事から、容見天神として社殿が建てられたと書かれています。そして現在の福岡天神は、この神社がその名の由来となった事が書かれていますね。
鎌倉時代頃といわれる古い博多の地図を見てみると、四十川の記載があります。この地図によると天神は海の中、菅原道真は最初博多の袖の港に上陸。そこから更に船で移動して、四十川に上陸したと伝わります。
博多の上陸地にも天満宮が建っていました。
四十川は現在の薬院新川の事で、薬院駅の西側を流れる川の事。現在も菅原道真が自らの姿をうつした場所といわれる橋があります。
川面に移る憔悴し変わり果てた自らの姿を見て嘆き悲しんだという菅原道真。その場所にかかるといわれる姿見橋、川には橋やビルがうつっていました。
入口の鳥居横にあった水鏡天満宮の絵図、1821年に書かれたもの。この場所に移った後の姿です。この絵が描かれたころより境内は狭くなっているようですが、鳥居から拝殿、本殿へ。その横に建つ稲荷神社。一部は今も当時の面影を残しているんじゃないでしょうか。
さて門をくぐって境内へ。正面にもう一つ門があり、その奥に拝殿が見えています。手前には池があり橋が掛けられていますね。
池の水はとても澄んでいて、大きな鯉が泳いでいました。
手水舎でまずは清めを行って中へと入っていきます。
街なかに建っているので、スグ脇が飲食街というのが面白いですね。
立派な社務所が建っています、ご朱印を貰うときには先にお参りしてから。お参りせずにご朱印だけもらうのはマナー違反、口コミをみるとトラブルがけっこう多いみたいです。
社務所の横には大きな楠、市の保存樹になっています。
天満宮と言えば牛、そう、牛なんです。で、なんで牛の像が沢山あるかというと、大宰府で亡くなった道真の遺体は牛車で運ばれました。その牛車が墓所へと向かう途中、安楽寺の門前で牛が動かなくなります。人々はなんとか墓所まで牛車を動かそうとしますが、牛は全く動かず。これはここに留まりたいという道真の意志であろうということで、道真は安楽寺に霊廟を作りそこに葬られました。安楽寺は後に安楽寺天満宮となり、現在の大宰府天満宮となります。つまり太宰府天満宮は道真のお墓なんですね。
そういう謂れがある事から、天満宮には天神さんを運んだ牛の像がたくさんあるのです。
金属製の狛犬、すごく強そう。
この神門をくぐって天満宮に参ります。
黒田長政によってこの地に移され、二代藩主忠之が社殿を再建したと伝えられている水鏡天満宮。はたしてこの拝殿もその頃のものなのか、詳しい事は分かりませんが朱色が鮮やかな美しい社殿。
本殿に向かって手を合わせます。
本殿も白い壁に朱色が映えて、とても印象的な建物。
境内には荒木田稲荷神社もありました。荒木田稲荷って何だろう?と思って調べてみたのですが、詳しい事は分からず。ただ荒木田という姓は日本有数の名族というか、とても古い一族。明治初年まで伊勢神宮内宮の祠官を世襲していました。西暦131年から190年ごろまで在位したといわれる(正確な西暦年代は特定されていません)第13代「成務天皇」のときに荒木田姓を下賜されたのが発祥。大化の改新で有名な、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の中臣氏と同族とも言われる。という事は中臣氏は藤原氏を生み出すわけだから荒木田氏は藤原氏と同族で…日本の氏族を調べ始めると、とても安川の手に負えるものじゃないのでこの辺でやめときます。
この荒木田稲荷は…まあ関係ないのかな、どうなんだろう。
本殿裏にある末社、大黒社、秋葉社、金毘羅社、宮地獄社の4社が並んでいます。
ふと本殿を裏から見てみると、何やら不思議なものがあります。
なんの変哲もない石に見えるんでだけども、なぜだか多くの人が撫でたようにテカテカになってるんです。良くわかんないけど、とりあえず撫でておこう。ネットで調べても石に関しては何も出てきません、なんだろうね。安川は父が京都の北野天満宮の近く出身なので、子供の頃はよく父に連れられ北野天満宮を詣でたのですが、牛の頭をなでてその手で自分の頭をなでると賢くなるというのがあった。ひょっとして、この石もそのたぐいなんでしょうかね、天満宮にあるだけに。…謎だ。
4社並んだ末社の横には蔵が建っていました。
ぐるっと一回りしてくると歌碑のようなものが建てられた場所がありました。
ここにも小さな牛が居て
その裏は小路のように整備されていました。都会の中にある鎮守の森、さながら森の小路…といったところでしょうか。
社殿の横から正面を見てみると、なかなか凄い光景。都市部のど真ん中、ビルに囲まれた水鏡天満宮の様子がよくわかります。ちなみに正面に見えるガラス張りのビルはアクロス福岡です。
参拝を終えて神社を出ようと歩いて行くと
ちょうど神社前のバス停にバスが停車、乗車口まで一直線。菅原道真が居た時代は牛車だったんでしょうけど、現代の門前にはバスが止まります。なんとも不思議な気分になりました。
水鏡天満宮から出てその横、境内からも見えていた飲食店街がレトロな横丁になっていてとってもいい雰囲気。
路地を真っ直ぐ北へと抜けていくと、突然右手に見事な煉瓦造りの洋館が姿を現します。
19世紀のイギリスを彷彿とさせるこの外観。
水鏡天満宮の鳥居と並ぶレンガ造りのブリティッシュな洋館の正体…それは
福岡市赤煉瓦文化館、旧日本生命保険福岡支店の洋館でした。
詳しくはコチラ
なんとなくただ通り過ぎるだけの神社だったりもするんだけど、調べてみると様々な歴史の繋がりを見つける事が出来るんです。かつて平安時代、西暦901年というから1100年以上の昔。菅原道真という人が博多に立ち寄り、そこから大宰府へと向かいました。政争に敗れ失意の旅路であったのでしょうが、当時の九州の人たちからすれば右大臣なんていう国の中枢にいた超絶偉い人、一生見る事も無いような、まさに雲の上の存在を間近に見て大騒ぎだったんじゃないでしょうか。
福岡市内各地に残る菅原道真が腰かけた岩だとかなんだとか、その足跡を今に伝える数々の言い伝え、1000年以上経っても色褪せる事のない名声。古い国が滅ぼされ新しい国が建つという国家の断絶を経験せず、天皇を民族の象徴として2000年以上の長きにわたって一つの国が続いてきた世界で唯一ともいえる国、それが日本。一国統治が続いてきたからこそ残る歴史の繋がり。
温故知新、古きを訪ね新しきを知る。過去の出来事やその時代を生きた人に思いを馳せ、ゆかりの地を訪ねて歴史の繋がりを実感する。そうすると今も昔も人というのは大きく変わってない気がしてくるから不思議。
知者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。いろいろと生きずらく感じる世の中だけど、過去の人たちはそんな中でも様々に工夫して生きてきたんです。歴史を学ぶこと、それ即ち今を学ぶことであり、未来を学ぶこと。そんな学びのとっかかりに、近くにある歴史スポットを訪ねてみると面白い発見が沢山あるはず。これからも天神や博多の歴史を訪ねていきたいと思うので、気になったら見に来てくださいね。
「水鏡天満宮」
住所:福岡市中央区天神1-15-14
※この記事は私が訪れた時のものです、現状と異なる場合があります。最新情報、詳細はご自身で確認することをおすすめします。
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