世界遺産から漏れたからこそリアルな姿が保たれたと言えるかもしれない、大牟田市にある三池炭鉱の三川抗跡。
この記事は特集「【西鉄天神大牟田線】の終点がクッソ面白かった!天神発の電車ひとり旅」の関連記事です。
「三川抗」言葉を失う圧倒的なリアリティ
そういえば子供の頃はまだ炭鉱が各地で操業中で、時どき炭鉱事故なんていうニュースが流れていたのをうっすらと記憶しています。三池炭鉱が閉山となったのは1997年の3月、昭和ではなく平成9年まで操業していたってんだから、そりゃ子供の頃の記憶に残っているはずだ。
で、この三川抗が竣工したのが1940年、そこから約半世紀にわたって石炭採掘を行っていました。三川抗の第一斜坑では1963年に大きな事故が発生していて、458人死亡、一酸化炭素中毒患者839人という戦後最悪となった事故現場でもあるんです。
普段は見学できないんだけど、土日祝日のみ解放される三川抗。大牟田に残る炭鉱跡の中で、最も見応えがあるという抗口の今を見てきました。
操業当時の姿が色濃く残る三川抗跡
今も当時のまま残る三川抗の正門
三井のエンブレムの下に、三井石炭鉱業株式会社三池鉱業所と刻まれたプレート。
自転車でグーグルマップを頼りにやってきました三川抗。どうですかこの門構え、まるで衛門みたいなので急いで自転車を降り、姿勢を正してしまったのは元自衛官のサガ。というのは置いといて、まだ操業してますと言われてもおかしくないような、見事に往時の姿を留めています。
門の前に立てられた三川抗の案内看板。
1940年開抗、三池炭鉱の最先端技術が集結された坑口だったそうです。石炭を揚げるための第一斜坑と人員が昇降するための第二斜坑があり、1997年閉山の日まで操業していました。またこの三川抗には坑口以外の施設も残っていると書かれています、これは期待できますね。早速中へと入っていきましょう。
門の裏にはいきなりレトロな建物。守衛の詰め所でしょうか。
真っ直ぐに歩いて行くと右手に売店とスタッフの待機所がありました。
売店の裏手には三井倶楽部という巨大な洋館、レストランや結婚式場として利用されているようです。
目の前には三川抗の建物群が姿を現しました。ちなみに手前の築山は戦後になって昭和天皇が来たことを記念して作られたもの。
生々しすぎる第二斜坑
三川抗への入り口。
広大な敷地、当時の施設で壊されたものもあると思うんだけれども、それでも巨大な木造建築などが残されていて、圧倒的なスケール。ここがスタート地点、期待が膨らみます。
各所にこういった写真入りの説明板が設置されていて、当時の様子をイメージしやすい。
ここは入昇抗口という場所だそうです。坑道に入っていく人は、ここから中へと入っていったんですね。タバコは持ち込み禁止、正面の神棚で安全を祈願したそうです。
第二斜坑へと続く廊下入口です。
今はもう神棚はありませんが、炭鉱作業員が毎日のように通っていたであろう通路へと入っていきます。ここから入って出てくることが出来なかった人もいるんですよね…そう考えるとなんとも複雑な気分。
第二斜坑へと続く通路
中で直角に曲がって抗口へ
通路は老朽化しているためなのか、耐震補強なのか、その両方なのか、鉄骨を組んでガッチリと補強してあります。天井はかなり低くて、大人が立ったまま歩くことが出来ません。少し腰をかがめて歩いて行く感じ。
通路を抜けると目の前に坑口
入抗口の通路を抜けると目の前に坑口の跡。いまはコンクリートで塞がれていますが、ここに幅6メートル、高さ4.3メートルの坑口がありました。第二斜坑の長さは全長2キロもあったそうです。
写真と説明が書かれた看板。
まだ坑口が開いていた頃の写真と説明が掲載された案内板。この写真をみてから再び現地を見ると、当時の姿が目の前に広がるような錯覚を覚えます。ここで人車と呼ばれる小型の電車に乗り、約7分で1700メートル、海面下約350メートルまで進み、そこからさらに乗り換えて採炭現場へと向かっていた。と書かれています。
今も現地に残る人車
坑口の跡には写真に写っていた人車が変わり果てた姿で展示されていました。水色の塗料がかろうじて残っていて、その形状から同じ車両だと判別できます。かつてここにレールが敷かれ、この人車が作業員を運んでいたんですね。
人車の椅子が車体に対して斜めに取り付けられていて、下り坂で水平になるようになっています。
案内看板の写真にも写っていた人車の案内灯っぽいやつ。
人車の搭乗者注意事項。手書きなのかな…すごく読みやすい字です。
第二斜坑に設けられた小屋、人車の管制ルームでしょうか。
第二斜坑から外へ出たところ、人車のレールが残っています。
坑道の跡が残っているとかそれだけではなくて、当時使われていた物などが無造作に置かれていたり、朽ち果てた人車が廃坑当時のままの姿で残っていたり、とにかく圧倒的なリアリティ。炭鉱の跡を見るのは初めてじゃないけども、ここ三川抗の生々しさは別格。凄いですよ、マジで。
三川抗に残る炭鉱設備の数々
三川抗跡に残る巨大な木造建築。
第二斜坑から出てきてふと目線を右へ向けると、目の前には巨大な木造建築。これは凄い、いつ頃建てられたものなんでしょ。圧倒的な存在感で、しかも相当古いですよ。文化財登録されてないのが不思議なくらいの規模と構造じゃないですなね、戦前の建物と言われてもなるほどと思える建物です。
これ復元したら戦争もの映画のロケなんかに使えるんじゃないですかね、旧軍の施設として。何年前に建てられたものなのでしょうか。
この巨大な建物は繰込場(くりこみば)という建物らしい。
ここは入抗前のブリーフィングが行われていた施設のようです、2階に講堂があってガヤガヤと賑やかな場所だったんでしょうね。
さらに奥には平屋の木造建築物。
ここは職員浴場の建物だそうです。
炭鉱に潜る坑員の浴場と職員の浴場は分けられていたらしく、ここに残っているのは職員浴場。写真では内部が綺麗に残っているように見えるけど、ロープが張られていてこれ以上中へ入れなくなっていました。
開いていた扉から内部を撮影。
扉が開けっ放しになっていたので中を覗いてみると、扇風機なんかもつけっぱなしだし当時のまま残されています。脱衣所棟を抜けて、その先にある建物内に浴槽が見えてるんだけど写真じゃチョット分かりにくいですね。
続いてコンプレッサー室。
既に撤去された機械もあるのか、すき間が目立つ室内。てか、壁が壊れてますよ。
建物の側面にあるコンクリート壁に空いた無数の穴。これは新人が機械の練習をした時の跡だそうです。
続いて巻揚機室。
巻揚機というのはトロッコなどを引っ張るためのワイヤーを巻き上げる動力装置。
石炭を積んだトロッコを巻き上げるだけに、めちゃめちゃデカい。
ここは第一斜坑から上がって来る石炭を巻き上げるためのモーターが設置された部屋。爆発事故があった時には、爆風で建物が吹き飛んだと書かれています。ここにあった建物を吹き飛ばすってどんだけの爆発だったんでしょう。想像がつきません。
第一斜坑巻揚機の仕様が書かれています。ロープの長さ2800mって書いてありますよね、どんだけ…
巻揚機のコントロールルーム。
当時のまま残されているコントロールルーム。電源が来たらこのまま動かせるんじゃないかと思えるほど、とてもきれいに残っています。ラッパみたいなのは伝声管でしょうかね、電話もあります。各所と連絡を取りながら操縦していた様子が伝わってきます。
第一巻揚機室にあった小部屋、待機室か何かだったのでしょうか。
更に奥へ、一番奥にあったのが第二巻揚機室。
第二巻揚機。これが第二斜坑にあった人車を巻き上げていた機械。まさに命綱。
これもまた巨大な巻揚機
この建物は天井が落ちてしまってます。
第二巻揚機室は建物の傷みが激しく、天井が落ちてしまっています。危険なためにあまり中へ入ることが出来ませんでした。
三川抗の施設を撮影。
第二斜坑と、奥に最初に入って来た入昇抗口の建物。
何かの建物を撤去した跡だとおもんですけれど、開けたところから全体像を見渡してみると、広い敷地に数多くの貴重な遺構が残されていることが分かります。特に第二斜坑方向を見てみると、本来なら手前に第一斜坑があったはずなんですよね。第一斜坑は完全に更地になっていて、今は何も残されていません。
第一斜坑の正面の位置に神社がありました。
明治41年製国内最古の電車
1908年に輸入された国内に現存する最古の電車
他にも三川抗には明治・大正時代の炭鉱電車が展示されていて、中でも1908年にアメリカから輸入されたゼネラルエレクトリック社製の電車は国内に現存する最古級の炭鉱電車。
特徴のある独特のフォルム
明治といえば蒸気機関車の走り始めの頃だと記憶しているのですが、そのころには電車も走っていたんですね。まあ炭鉱なんかで蒸気機関車を走らせたら、煙でえらいことになりそうではありますが。
車両の説明看板
凄いね、100年以上前の電車がこんなに綺麗に残ってる。
説明の看板にも書いてあるんですけど、この電車は操縦席への入り口がないんです。マジかよ…と思ったんですけど、本当にない。何考えてんだw
運転席の内部はとてもシンプル、さすが100年前の電車ですから今風ではないですね。スロットルとブレーキくらいしかないんじゃないでしょうか。
全面からの写真、隣に写っているのは同じく明治時代に製造されたドイツ製の車両。
とまあ、こんな感じで古い炭鉱電車が明治、大正、昭和と並べて展示してあります。
明治44年製造、ドイツから輸入された車両の操縦席。中央にスロットルみたいなやつと、右手のレバーがブレーキでしょうか。
大正時代の車両に乗せてもらったんですけど、運転席が車両の前後に対して直角横向きになっているんです。なんでこんな事になっているかというと、作業中は前後というものがなくどっちにも行ったり来たりしなきゃいけないので、前進とバックではなく右と左を見ながら走らせられるようになっているのだとか。
運転席の足元にあったペダル、かかとで踏むような位置に付いていました。
電気系統のスイッチ。
スイッチには電灯とか暖房などの文字、圧線というのはパンタグラフのことでしょうか。とにかく古いスイッチです。この車両は後に三菱がコピーして、初の国産電気機関車となりました。隣にコピー品が展示してありましたが、外観も運転席も全く同じ。違いを見つけることが出来ないほどの完コピです。日本も最初は他国のコピーから技術を学んでいったんです、そういう意味でも興味深い車両。
大牟田では同型の車両が今も現役で走っているそうです。ビックリですよね。
同じような車両が2両並んでいます。手前が三菱製、奥がジーメンス製。兄弟のように並んで展示されていました。
そしてコチラが昭和の車両、東芝製です。
運転席も洗練されています。
このスイッチ類は同じなのね。
いやいや驚きました、100年以上前、明治時代にこんな電気機関車が走っていたとは。皆さん知ってました?私は知りませんでしたよ。
売店で購入した切符。
三川抗の見学は無料なのですが、電気機関車の運転席に入るには切符を購入しなければなりません。見学料は500円、この切符を持って案内スタッフに話しかけると鍵を開けて車両を見せてくれます。
これだけの施設を維持するのは大変でしょうから、出来れば運転席の見学もしてみてください。楽しいですから。
ありきたりだけど凄いの一言
三川抗の売店
大牟田には世界遺産になった宮原抗という炭鉱の跡があるんだけれども、ネットでの評判は断然こっちの三川抗の方がイイんですよね。実際に三川抗跡を見学して感じたのは、いい意味で放置されてる場所が多いという事。老朽化が激しく入れない場所も多いんだけれども、基本的にロープが張られているだけなので隙間から覗くことが出来たりします。
当時のまま残されている部分も非常に多いので、綺麗に整備された観光スポットとは違ったリアリティがあります。ほんとスグにでも作業員が出てきて動き出しそうな、そんな感じ。ただかなり傷みが激しくなってきているみたいなので、いつまで見られるのか分かりません。見に行くなら早めに行った方が良さそうです。
「三川抗跡」
住所:大牟田市西港町2丁目15
公開日:土日祝日
公開時間:1月~3月9:30から16:30(入場16:00まで)、4月~12月9:30から17:00(入場16:30まで)
休日:年末年始
※この記事は私が訪れた時のものです、現状と異なる場合があります。最新情報、詳細はご自身でかくにんすることをおすすめします。
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