博多は中心部から少し離れると昭和のレトロな街並みが残っていて、特に呉服町界隈には古い建物が多いんです。今回は博多区のレトロ地区「下呉服町」で見つけた町屋と古い長屋、そしてすぐ近くに建つ万四郎神社。
「万四郎神社」子供の守り神と博多下町のレトロな建物
博多の町って古いだけあって、何気なく歩いていると突然「おっ!カッケー!」と足を止めてしまうような古い建物が残っているんですよ。この日はちょうど地下鉄呉服町で降りて、博多小学校の地下にある石塁遺構展示室を見に行ったのです。その帰り、ついでだから博多まで歩いてみるかと大博通りを歩いていると…みつけた!見つけちゃいました。
石塁遺構展示室の記事はコチラ↓
大博通を歩いていて、駐車場の奥に見えたとってもレトロで素敵な建物。これほど見事に残されているレトロ建物はナカナカお目にかかれません、早速見に行くために南からぐるっと隣の筋へと向かいます。
見つけたレトロな建物へ向かう途中に建っていた、いかにも下町らしい神社。気になったのでググってみると…
この神社は大阪の鴻池と並び称された大富豪、黒田藩の御用商人であった博多の伊藤小左衛門とその一族が祭られているそうです。伊藤小左衛門は1667年、黒田藩から国禁となった武器を輸出。結果、密輸が発覚し家族、親族、番頭、手代、更には平戸や長崎などの一族郎党すべて捕らえられ、斬首や磔の刑に処せられました。
小左衛門と浅見七左衛門の2人は磔刑となり、40数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく40数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である2人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった1人は父と同日に長崎で斬首。博多にいたもう1人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多で斬首させた。博多の高木惣十郎は福岡藩当局の手で捕え、長崎に召し出して、ここで処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後長崎に召し連れ、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた。
wikipediaより
その一族を祭ったのがこの神社。え、なんで罪人が崇められてるの?と思う人もいるかもしれませんが、日本では罪人でも死ねば仏様や神様と考えられ、信仰の対象となります。そう、いかなる罪人も、極悪人も、みんな死ねば仏。死者を鞭打つような事はしません。古くは平将門など、大罪人が死して神となった事例は沢山あります。
現地の説明によると連座で処刑された子供二人を祭っているとなっていますね「万四郎神社は、黒田藩の御用商人・伊藤小左衛門とその一族が祀られている神社です。」と解説しているところもあるし。いずれにしても、ここが密貿易が発覚した大商人と一族、番頭、手代などの従業員までが処罰されるという大事件があった場所ということに変わりはありません。
神社本殿の祠。
おっ、ここの電柱にもありました。これは博多の歴史スポットを紹介する案内板。なるほど、この万四郎神社とその前にある公園。ここは伊藤家屋敷跡だったんですね。当時この場所に住んでいた人は、ことごとく処刑されてしまった訳ですが…この人、実はすごい人なんです。
まず豊臣秀吉の朝鮮征伐、明国侵攻作戦によって大打撃を受けた当時の中国王朝明は、秀吉との戦争で疲弊した国力を回復できず、後に女真族に滅ぼされ清になったんです。で、この伊藤さん、明の残党を支援していたんですね。とにかく密貿易で相当な利益をあげていたらしく、あの「伊万里焼」を世界に知らしめた人でもあります。
またこの密貿易には、その規模から黒田藩が関わっていたのではないかと言われているそうです。ひょっとしたら、とかげのシッポにされちゃったのかもれません。もしそうなら密貿易も黒田藩との関係から、危険を承知で引き受けざるを得なかったのかも…事実は歴史の闇の中。本当のところはわかりません。
まあ、こういう自分なりの推測に基づいて妄想するのも歴史の楽しみ方。
神社境内に建てられている塚、伊藤家の塚と読めますね。神社まで建てて、さらに塚を築くほど丁重に祭られた罪人の一族。一族だけでなく店で働いていた番頭や手代といった従業員は全員捕縛、他国に逃亡した者まで見つけ出して処刑するという徹底ぶり。なんだか藩にも後ろ暗いところがあったのでしょうか…やっぱ匂いますね。あくまで安川の妄想ですが。
万四郎神社の筋向い、伊藤家屋敷跡の公園。
公園内には博多の旧町名が書かれた石碑がありました。「富商伊藤小左衛門の屋敷あり信国もここに住む綿打ちの家」と彫られています。
さて、思わぬ歴史スポットに遭遇して寄り道しましたが、大博通りから駐車場越しに見えたレトロな長屋にやってきました。万四郎神社はビルの陰に隠れていて、ちょうど見えなかったんです。
この場所は万四郎神社前の通り、万四郎通りを北へ数十メートル。凄いでしょ、このレトロ感。しかも現役です。
工事中なのか、建物横、道路側に開口部があったので、ちょっと中を覗いてみました。内装や住宅設備は全て取り払われています。道路側の壁に開口部を作るという事は、テナントにでもするのでしょうか?
レトロな木造ベランダ、アルミ製になってる家もありました。古いですけど相当丁寧に作られているのでしょう、今でもシッカリ形をとどめています。給湯器の煙突や、波板やトタン板がレトロです。
このまま、神社方面へ来た道を引き返し、隣の筋へと入っていきます。そして、ちょうど最初に見た建物の反対側から長屋を見てみると、向かい合って2棟の長屋が建っていました。見てください、この重厚な造り。そして蜘蛛の巣のように張り巡らされたケーブル類。たまりませんねぇ。
見えますか2階窓の木枠、大きな一枚ガラスが貴重だった時代、こうやってガラスをいくつも組み合わせた窓がスタンダードだったんですよね。見事な窓です。一階はテナントでしょうか。
向かい側の長屋、コチラも木製の小さなバルコニーがついています。綺麗に手入れされていて、生活感のある建物。
そして、ふとこの長屋から隣を見ると・・・これはスゴイ!
典型的な町屋です、いつごろの建物なんでしょう?大正?昭和初期?とにかく貴重な町屋建築を発見。凄いなぁ、古い建物だけが持つ重厚な存在感。目が釘付けになります。
長屋との隙間、ここだけ切り取ってみると昭和の時代にタイムスリップしたみたいですね。
正面から見ると、この町屋も古い姿をそのままとどめていて素晴らしい。正面はコンパクトなのにドシッとした重厚感、相当な年月を経ているはずですが全く傷みを感じさせません。町屋なので、奥行きはけっこう長さがあります。
古代から続く貿易都市博多、古い建物や街並みが少しでも未来に残っていくといいですね。
何気なく歩いてみたんですが、まさかまさか、素晴らしい町並みに出会う事が出来ました。私が初めて福岡に来た頃、ちょうど15年くらい前でしょうか、不動産販売の営業をしていた頃です。街を歩いているとこんな建物が各所に残っていた気がします。とくに博多駅南とか、住吉とか、博多駅から少し離れた場所です。しかし、一度他へ引っ越して、10年ほどして帰ってきてみると随分減ったような気がするんですよね。なんとも寂しい限り。オシャレな福岡、レトロな下町の博多というイメージがあったので、ちょっと残念な気がしていたんですよ。
それでもまだ、こういった建物が時々残っている。叶うなら、こういう建物が少しでも長く残っていてほしいものです。
「下呉服町万四郎神社付近」
MAP:福岡市博多区下呉服町1−28(万四郎神社)
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