博多は何度か戦火に見舞われているそうですが、中でも有名なのが「博多(菊池)合戦」です。鎌倉時代末期に激しい戦いが繰り広げられた合戦、その戦場跡を歩いてきました。
菊池武時による鎮西探題襲撃事件
1333年3月13日、肥後国菊池郡を本領とする国人である菊池武時は博多に置かれた鎌倉幕府の行政府「鎮西探題」を攻撃しました。時は幕末、鎌倉幕府を倒すべく後醍醐天皇が討幕に向けた活動を続けていた時代、各地の国人へと幕府を倒すべく決起を促す綸旨を発します。菊池武時も綸旨を受けた一人で、同じ肥後国の国人である阿蘇惟直とともに博多で武装蜂起。鎮西探題に籠る幕府方の探題北条英時を打ち取るべく攻撃を開始しました。
今回は中世博多研究の第一人者である佐藤鉄太郎氏の著書「元寇後の城郭都市博多」に書かれている内容を元に、戦いの舞台となった場所、櫛田神社周辺や鎮西探題があったと推定される場所を中心に歩いてみました。
鎮西探題はどこにあったのか
櫛田神社にある櫛田の銀杏、そこには菊池武時公奮戦の地と書かれた看板があります。
櫛田神社にある看板には「櫛田神社周辺はかつて櫛田浜と呼ばれる海岸であった。元弘三年(1333年)南朝(後醍醐天皇派)の忠臣であった菊池武時は錦旗を押し立てて挙兵、櫛田神社近くにあった鎮西探題館の北条英時を攻めた。しかし、敵の謀計にかかり菊池軍は敗北、浜辺で散った…」という事が書かれています。
櫛田神社の西側にある川端商店街のアーケード
住吉神社にあった中世博多を描いたといわれる博多の古図
櫛田浜とは櫛田神社の西側にあたる地域、中世の博多は中洲などなく住吉神社のあたりまで博多湾が入り込んでいました。とうぜん天神のほとんどは海の中、長浜というのは湾の入り口に合った文字通りの長い浜だったのです。
櫛田神社にある説明版によるとこの川端商店街がある櫛田浜で菊池一族が打ち取られたように書かれていますが、実際には櫛田浜での戦いに勝利し鎮西探題御所内まで攻め入っています。
櫛田神社の北側に建っていた鎮西探題の菩提寺「大乗寺」の跡
鎌倉時代に書かれた博多合戦の推移をまとめた博多日記という書物によると、菊池軍は櫛田浜に陣を張り櫛田口より博多へ進入。門を破り鎮西探題に向けて進軍、探題の北門(正門)を突破して御壺(御所庭園)で壊滅したと書かれているそうです(原文読んでません)。
という事は、櫛田神社の西側にある浜から攻撃を開始、櫛田浜から博多に入るための櫛田口を突破、つまり東方向へと進軍したことになります。このことから鎮西探題は櫛田神社の東側にあった事は間違いなく、しかも菊池勢は探題御所と間違えて櫛田神社に放火し討ち入ったといいますから、東側にほぼ隣接して建っていたものと思われます。
櫛田浜、現川端商店街から続く、大乗寺と櫛田神社の間を通る道
福岡藩になってからの街並みでもよくわかるのですが、街の入り口には防衛のために寺や神社が配置されるのが一般的です。ちょうど大乗寺跡と櫛田神社の間を通る通り、この場所がまさに櫛田口であったのではないでしょうか。櫛田口というからには櫛田神社に隣接した入り口と思われ、防衛のための屯所として寺を配置するのは中世から江戸時代まで一般的に行われていました。博多の東の入り口である石堂口も一行寺と海元寺に挟まれた道。そこに木戸がありました。
恐らくここも両側に神社と寺の壁があり、通りには木戸が設けられ攻撃を受ければ木戸を閉めて両側の壁と門で敵の進撃を阻む構造になっていたと思われます。寺社内に足場を作れば壁の上から弓を射かける事も可能になり、城門などと同じような機能を果たしたと思われます。
聖福寺総門から櫛田浜までを繋ぐ道、鎌倉時代の基準線となった通り。
鎌倉時代に整備された博多の町では、聖福寺の伽藍から総門を繋ぐ通りが街づくりの基準線。この線となる道に並行する通りと直角に交わる通りを作って碁盤の目状に整備されました。櫛田神社と大乗寺跡の間を通る道はほぼこの道の延長線上にあり、博多の入り口であった櫛田口はここで間違いないんじゃないかと…佐藤鉄太郎氏の「元寇後の城郭都市博多」に書かれている場所ともほぼ一致しますし。
という事で鎮西探題は櫛田口から入り櫛田神社を超えてすぐ東側、聖福寺から続く基準線より南側一帯に広がっていたようです。1辺が二町半の正方形といいますから、条里制の単位で行くと一辺が約280メートル。櫛田神社のから東は東長寺あたりまで敷地に含める、巨大な施設でした。
戦いの跡を歩く
鎌倉時代の城郭都市博多にあった南の入り口辻堂口、承天寺山門付近。
元寇の後、鎌倉幕府は九州防衛の拠点として博多を城郭都市として整備します。東には石堂川(現三笠川)西は海、北の海岸部(息の浜)には石築地(元寇防塁)さらに内側に堀(大水道)と土塁(土居)を東西800メートルにわたって築き、博多の南端部は堀で内陸部と切り離す。さらに鎮西探題を設置し行政中枢と軍司令部の機能を持たせます。博多への入り口は西に櫛田口、南に辻堂口、東に石堂口を設けました。
息の浜に投宿していた菊池武時は最初に博多の南へと下り、鎮西探題を東側から攻撃できる位置にある辻堂口から進入しようとします。しかし放火した時に火勢が強くなりすぎ進入できず、そのまま西へと移動、櫛田浜で陣を張ります。
博多の川端商店街と中洲の間に流れる博多川
まだ博多湾が奥まで広がっていて中洲が無かった時代ですから、ちょうど川端商店街の辺り一帯が海岸だったと思われます。ここに菊池軍が陣を張り、迎撃に出た鎮西探題の幕府軍を迎え撃ちます。
鎮西探題の幕府軍は菊池勢蜂起の情報を掴み北の海岸線である息の浜へ出動しますが、菊池軍は既に出発していました。幕府軍は探題御所を防衛するために須崎を経由して櫛田口方面へ進み、櫛田浜で陣を張っていた菊池軍と遭遇、戦闘となります。
櫛田口があったと思われる大乗寺跡と櫛田神社に挟まれた通り。古い建物があり、この家の前は外国人観光客が記念撮影をする人気スポット。
菊池武時公奮戦の地とかかれた案内板が設置されている櫛田神社境内の「櫛田の大銀杏」
櫛田浜で幕府軍を打ち破った菊池軍は櫛田口を突破、博多内に侵入すると櫛田神社へと討ち入り放火します。
櫛田口を抜けて東へ、この道は博多の基準線。このまま直進すると聖福寺の勅使門に突き当たります。
更に東にある鎮西探題御所へと進軍。
中世博多と同じ場所に今も残る古い道、開発が進む博多ですが今もレトロな雰囲気が残っています。
佐藤鉄太郎氏の著書によると、ちょうどこの道の右手が犬射馬場とよばれた鎮西探題前の広場になっていました。左手には奥堂屋敷という大商人の大きな屋敷があり、壁が続いていたはずです。この辺りでも戦いが繰り広げられていたのでしょうか。
聖福寺の勅使門へと続く基準線となった道と並行している櫛田神社の参道、正面に見えているのは大博通りに面して建つ櫛田神社一の鳥居。その先は東長寺。
菊池軍は鎮西探題の御所へと討ち入っているので少し南へ、すると櫛田神社の門から東長寺まで続く参道に出ました。この道は比較的新しい道、大博通りまで突き抜けて大通りを渡ると東長寺です。ここは鎮西探題の敷地内になるはず。
櫛田神社参道から更に南、鎮西探題跡を歩いていると大正時代に建てられたという旅館「鹿島本館」がありました。
鹿島本館と同じ並びにあるレトロな山本旅館
菊池軍がどこでどのように戦ったのかここまで来てしまうともはや分かりませんが、この辺りが鎮西探題の御所跡のはず。少なくとも百人を超す菊池軍がなだれこみ、正門を突破して鎮西探題御所内で激しく争ったのは事実。この辺りが古戦場…のはずです。
発掘品の一部が写真で展示されているビル
博多区冷泉町に建つ新しいビル、このビルの建築時に発掘調査が行われました。
櫛田神社の参道から南へ、鹿島本館や山本旅館があった通りを抜けてくると「博多祇園M―SQUAREビル」という新しいビルがあります。このビルを建築する際に、大規模な発掘調査が行われました。ビル一階入り口前にある広場には、発掘の様子や出土品が写真で紹介されています。
発掘調査の様子を写した写真、かなり広い範囲で行われたようです。
出土品は弥生時代から江戸時代まで、膨大な量が出土したとのこと。
出土品の写真は足元にタイルのようにしてはめ込まれています。
様々な出土品が出たのですが、鎮西探題跡の最有力地とされているものの決定的な証拠というか、ここが鎮西探題跡と確定するようなものはなかったのでしょうか。博多は江戸時代からの歴史と、それ以前となると突然縄文時代や弥生時代まで飛んでしまうんですよね。中世、博多が貿易港として最も栄えていた時代、黄金期の歴史を詳しく解説してくれている書籍を探しても佐藤鉄太郎氏の著書くらいしか見つからないのが残念です。
佐藤鉄太郎氏の著書「元寇後の城郭都市博多」を元に現地を歩き、鎮西探題の推測位置を現地の観光案内地図に入れてみました。チョット広すぎかな?あくまで本を読んで感化された素人の推測ですからね、細かい突っ込みはご遠慮ください。
博多合戦(菊池合戦)概要
鎮西探題の東端あたり、大博通りと東長寺。
鎌倉幕府が日本を統治していた鎌倉時代、九州の博多は本拠地鎌倉、京都に次いで重要な都市として鎌倉幕府直轄の行政府「鎮西探題」が置かれていました。鎌倉幕府末期になると後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し討幕活動を開始します。当初は倒幕に失敗し島流しになりますが脱出、討幕の志を曲げずに各地の有力者に対して幕府を倒すべく綸旨を発します。
肥後菊池郡を治める菊池武時は綸旨に応じる事を決意、北部九州最大の勢力を誇る少弐氏と豊後守護の大友氏と共謀し九州における幕府の統治機関である鎮西探題を攻める準備を始めます。1333年3月13日、菊池武時は鎮西探題への攻撃を開始。博多の北部沿岸である息の浜から南下し南の入り口である辻堂口へ軍を進め博多への侵入を図りますが、放火した火が大きすぎて近付けず西へと移動。西の入り口である櫛田口から攻め入るべく、櫛田浜で陣を張ります。
鎮西探題も菊池軍蜂起の情報を掴み先制攻撃を加えようと菊池軍の駐屯地へ攻め込みますが、菊池軍は既に出発したあと。急いで軍を返し須崎を経由して櫛田浜へ、そこで両軍が激突。菊池軍が勝利し櫛田口を突破、そのまま櫛田神社に乱入し放火した後に鎮西探題御所へと攻め入ります。鎮西探題御所の北門(正門)を破り御所内に侵入、激しい戦いの末に御所内の庭園で壊滅します。共に起つ予定であった少弐、大友軍は参陣せず幕府側の援軍として到着。少弐、大友は幕府と朝廷とどちらが勝つか、天秤にかけて様子見をしていました。
菊池軍の総勢は100余騎とも250騎とも言われていますが、ことごとく討ち取られて鎮西探題の北側にあった犬射馬場にて首を晒されました。
鎮西探題は菊池軍を退けた約2か月後、5月25日に少弐氏など九州全域から参集した軍による総攻撃を受けて陥落。その3日前の5月22日には鎌倉が新田義貞によって攻め落とされ、鎌倉幕府は滅亡しています。
近年になって市営地下鉄祇園駅の工事に伴う発掘調査で、東長寺の前あたりから刀傷などが残る人骨が100体以上出てきたため、菊池一族の骨ではないかと話題になりました。鎮西探題陥落時の死者との判別が出来ないため、断定はできないとのことです。
あと2ヶ月待っていれば鎌倉幕府は倒れていたのに…ほんの少し決断が早かったために失敗に終わった探題襲撃作戦。当てにしていた見方は来ず、まさに死兵と化して奮戦した戦いの場所。700年近く昔の話ですが、同じ場所に立ち過去の出来事や人々に思いを馳せる。ロマンですよね、歴史の連続性をリアルに感じる事が出来る。
これだから街歩きはやめられないのです。
この記事を書くきっかけになった佐藤鉄太郎氏の「元寇後の城郭都市博多」という書籍。今まで博多の歴史を調べようと思っても図書館で研究者が見るような発掘資料などしか無くて、分かり易く解説された本が皆無だったんです。歴史の町とかいってるくせになんだよ!とストレスを感じる日々だったのですが、そんな中で「なるほどそうだったのか!」と新しい道を示してくれた良書と出会う事が出来ました。これからも読み込みながら博多の町を歩き、サイト上で紹介していきます。
※参考文献:元寇後の城郭都市博多 佐藤鉄太郎著
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