室町時代末期、豊後の守護大名大友氏の家臣によって博多の街に築かれたと言われる博多城。その痕跡がいまも博多区祇園に残っています。
房州堀の臼杵安房守鑑続が築いた城
最近の福岡市は古都であることを前面にだして、博多の歴史などを盛んにアピールしていますが、実際に興味を持って調べてみると殆ど研究が進んでいないのか謎だらけなんです。特に江戸時代以前、豊臣秀吉による博多復興以前の事になると全く分からない。なんだか全て黒田藩や博多山笠で思考停止しているようで、博多が一番賑わっていたと思われる奈良平安から鎌倉、室町時代のことになるとサッパリなんです。今回訪れた場所は室町時代末期、戦国時代の博多に城が築かれていた事を今に伝える稲荷神社。
戦国時代と言えば博多を含めた筑前国を巡って大内、大友、少弐といった大名家が激しく争った激動の時代、この地でどんなドラマが繰り広げられたのか、とっても気になる場所なのです。
街なかにひっそりと建つ稲荷神社
博多区祇園にある内畑稲荷神社の一の鳥居
鳥居をくぐって通路を進むと神社が見えてきました。
畑内稲荷神社があるのは博多区の祇園、ちょうど中世博多の街の南西端あたり。明治時代に博多駅がつくられ、1963年(昭和38年)に現在の位置に移転するまで旧博多駅前の繁華街として賑わった場所。駅前通りの面影も一部に残っています。
内畑稲荷神社の境内。
表の通りからは全く見えない裏通りにある神社なので、近所の人でも存在に気付かない人もいるかもしれない。そんな奥まった所に建つ神社なんですけども、この神社が侮れない歴史スポットだったりするのです。
内畑稲荷神社の社殿
内畑稲荷大明神と彫られた祠
街の中心部にある神社だけに境内は広くありませんが、ビルに囲まれてひっそりと建つ神社は聖域らしい厳かな雰囲気。この神社を見つけたのは本当に偶然だったんだけれども、ここで巡り合ったのも何かの縁。神社に参っていく事にしました。すると、社殿で見つけた神社の由来を読んでビックリ。
街なかに隠れるようにして建つこの神社、なんと戦国時代に築かれた城跡らしいのです。
福岡にあった幻の城「博多城」
内畑稲荷神社の由来について書かれた看板。
内畑稲荷神社について書かれた看板によると、この神社は永禄年間(1558年から1570年)に建てられた社で、400年以上の歴史を刻んできた霊験灼かな神社。永禄年間といえば戦国時代真っ只中、将軍は剣豪将軍として有名な足利義輝や織田信長に傀儡にされた足利義昭の時代。
戦国時代に九州で最も大きな勢力を誇ったのが豊後(現大分)の守護大名である大友氏、大内氏や毛利氏と九州北部の支配権をかけて幾度も争い博多を手中に収めます。大友氏の重臣である臼杵鑑続(うすき あきつぐ)は現在の福岡市西区の柑子岳に築かれた柑子岳城を居城とし、博多の街を支配下に置き大友氏の貿易を仕切っていました。そして神社の由来には臼杵鑑続がここに城を築いたと書かれていて、この内畑稲荷神社は城の守護神として大友氏発祥の縁故ある豊後臼杵より御祭神を勧請して建立された…って、えぇっ!
【驚愕】博多に博多城があった!
博多区万行事の裏手に残る房州堀跡といわれる石積み
博多の町は今の博多と比べると随分小さかったようで、ちょうど南端に当たる部分に堀が掘られていました。西を那珂川、東を石堂川(現三笠川)、北は海と三方を水で囲まれ、更に南に堀を設ける事で博多の街は城塞都市ともいえるような町になっていました。で、この南側の堀が房州堀と呼ばれていたらしく、博多城を築いたと内畑稲荷神社の由来に書かれていた臼杵安房守によって整備されたと伝わっています。これは臭いますね、ここに城を築いて堀を掘ったという事は十分に考えられます。
房州堀跡について書いた記事↓
博多城の城域はダイエー渕上店に及ぶと書かれていますが、今はダイエーではなくマックスバリュー祇園店になっている場所。櫛田神社のすぐ南側にあたる位置。
博多城の事は何を調べても全く出てこないので、あくまで想像で国土地理院の地図に城域を入れてみました。城域内にある萬行寺などは江戸時代に移転してきた寺ですから、戦国時代に城があっても全く問題ありませんね。
さらにこの場所は博多合戦で有名な鎌倉時代に築かれた城館「鎮西探題」があったとされている場所と、かなり被っているんです。中世博多について筆者のような素人でも分かるように書かれている唯一ともいえる書籍、佐藤鉄太郎氏によって書かれた著書「元寇後の城郭都市博多」によると房州堀と呼ばれる博多南部の堀は鎌倉幕府によって整備された堀で、近くに残る矢倉門という地名は鎮西探題の南門があった場所じゃないかとされています。
博多警察署の横にある矢倉門跡の石碑
矢倉門という場所には博多の入り口があったという説もあるようですが、すぐ近くに辻の堂口門という博多の出入り口がある事から敵襲に備えた城郭都市という性格上ここに博多の出入り口を作る事は考えにくいそうです。そこで鎮西探題の南門があったと推測されているわけですが、ひょっとしたら博多城の城門があったのかもしれませんね。江戸時代になると博多の入り口がここにあったようですが…
鎮西探題について書いた記事は↓
とにかく13世紀の博多で鎌倉幕府によって鎮西探題という城館が築かれ、そこから約300年後の16世紀にほぼ同じ場所に城が築かれていた。城と言っても戦国時代の城は、福岡城のような総石垣の立派な城じゃありませんけどね。おそらく堀と土塁を巡らせ、いくつかの郭に別れた城館といった趣だったと思われます。ただこのような神社が残っている以上、大友氏の博多支配における軍事拠点があったという事は間違いないのだと思われ、こんな所に城があったとするならば、これまた歴史ロマンでありまして想像するだけでも胸が熱くなるお話なんです。
京都よりも古い謎多き古都「博多」
戦国時代の博多は日本有数の裕福な町だったそうで、当時日本を訪れていた宣教師などの記録に博多の様子が書かれているようです。それでも戦乱の時代には何度か武士による攻撃にさらされ、その都度復興して九州における中心的な商都であり続けたようです。イエズス会宣教師ルイスフロイスによると、大友氏が支配した時代には有力商人による自治が行われていたと伝えられているので、畿内における堺のような街だったのかもしれません。そんな華やかな商業都市博多ですが、実際の姿はどうだったのかというと分からないことだらけ。今回の博多城なども調査された痕跡すら見つけることが出来ませんでした。
謎は深まるばかり、気になりますねぇ。皆さんは博多城があったと思いますか?てか、あったら素敵だと思いませんか?筆者は絶対あったと信じています。だってその方が面白いし、ロマンがあるじゃないですか。
ということでこのブログでは歴史に関しては全くの素人である筆者が、少しずつでも手掛かりを探しながら博多の歴史を探っていきたいと思っています。果たしてどうなる事やら…気になったら時どき覗いてみてください。
「内畑稲荷神社」
住所:福岡市博多区祇園1-8
参考:元寇後の城郭都市博多 佐藤鉄太郎著
※この記事は私が訪れた時のものです、現状と異なる場合があります。
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