バブル期には天神最大の繁華街として賑わった親不孝通りにあるお寺、幕末の活動家と殿様になるはずだった黒田綱之の墓所があります。
「少林寺」墓に祈れば願いをかなえると言われたお寺
かつての賑わいまではいかないものの、今でもカラオケ店や飲食店が立ち並ぶ繁華街「親不孝通り」。福岡天神では有名な場所なんだけれども、そこにひっそりとお寺が建っています。寺の名前は「少林寺」超人的な能力を持った武術の達人がいるお寺のような名前だけれども、香港映画で有名なあの少林寺とは全く関係ありません。
天神の少林寺には4代福岡藩主になるはずだった黒田綱之と、幕末の福岡藩において尊王攘夷派の藩士、月形洗蔵の墓がある事でも知られています。
少林寺がある親不孝通り。一時は名前が悪いという事で親富孝通りと名前を変えていましたが、原点回帰したのか再び昔の名前になってます。バブル期には多くの若者で賑わった繁華街でしたが、今は賑わいの面影を残しつつ、なんとなくセピア色しているというか感傷的というか「寂び」を感じる街並み。オジサンは好きだけどね、こういう通り。
テナントビルの横にひっそりと山門を構える少林寺。繁華街にありながら、ここだけ静かで落ち着いた雰囲気。
山門をくぐると綺麗に整備された立派なお寺、迫力のある本堂が正面にドーンと建っています。この少林寺は黒田長政によって建立された由緒あるお寺。
山門のスグ脇に山形家の墓所が…なんでこんなところに?
福岡藩士の山形家が全国的に(といっても幕末フリーク界隈での話)有名になったのは、なんといっても幕末の福岡藩士「山形洗蔵」の活躍によるもの。明治維新と言えば一部の過激派テロリストが藩を巻き込み武装蜂起、人斬りテロリスト集団の黒幕が率いる反政府武装勢力によるクーデターで政権を奪取したとの見方も出来るのですが、国を開いて欧米先進国の文化や技術を積極的に導入して新しい社会体制を構築し、日本を封建国家から天皇を中心とした一つの国としてまとめ、短期間で近代国家として世界に認めさせたのは評価できるところ。
で、月形洗蔵はいったいどういう人かと言うと、薩長が手を組み倒幕の決定打となった薩長同盟の陰の立役者といわれる尊王攘夷派の活動家。西郷隆盛や高杉晋作とも親交があり、西郷は「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と月形洗蔵を評したと伝わります。
幕末期の福岡藩は佐幕と倒幕の間で揺れ、最終的に佐幕の立場を取ります。そのため藩論と対立する倒幕派への取り締まりが厳しくなり、月形洗蔵を始めとした活動家は捕らえられ、主だった藩士は切腹や斬首の刑に処されます。月形洗蔵は斬首されました。そんな人のお墓がこんなところに無造作に置かれています。
ちなみに月形洗蔵の墓は3つ墓石が並ぶ中で、向かって左の端、門に一番近い所にある墓です。
参考リンク:月形洗蔵Wikipedia
門の脇に山形家の墓、その隣には石仏が並んでいます。
そして本堂。比較的新しい建物なんだけども、迫力ある立派な本堂です。
少林寺の由緒が書かれた看板が設置されていました。初代藩主黒田長政、1604年に建立されたお寺。黒田長政夫人、徳川家康の養女栄姫の遺髪が埋葬されたと書かれていますね。他に3代藩主の長男黒田綱之の墓があります。黒田家の墓は非公開。
境内に黒田家の墓所に関する説明板がありました。向かって左から栄姫の五輪塔、真ん中に黒田綱之の墓、右に黒田長政次女の角柱塔が写真で紹介されています。
黒田綱之の墓だけが小さく見えるのですが、もともとこの大きさだったわけではなく墓を参る人たちがご利益を求めて削っていった結果、このような姿になったそうです。
博多の人たちの信仰を集める事になった黒田綱之は、福岡藩3代藩主の嫡男として誕生。本来なら4代藩主となるはずでしたが、突如廃嫡され30年以上も幽閉されます。一説には素行が悪かったために廃嫡されたといわれていますが、歴史は勝者が作るもの。本当のところはどうだったのか、今となっては知るすべはありません。
4代藩主になった実弟・綱政との権力闘争、長い幽閉生活を余儀なくされて死んだ綱之。一説によると綱政によって毒殺されたとも伝わります。
綱之が死んだ後、綱政の跡を継ぐべき長男が29歳で早逝、4代藩主綱政も翌年に死去。続けて起こる黒田家の凶事は綱之の怨念によるものと恐れられ、天神信仰よろしく尊崇を集めたのかもしれません。案内板には綱之が「自分の願いは叶えられなかったが、私の墓に真心を込めて祈るならば、願い事を叶えてやる」と言い残して亡くなったため、願い事をかなえたい人が多く訪れ、墓石を削って舐めた煎じたりした結果、墓の高さが4分の1ほどになってしまったと書かれていました。
境内の隅っこに立派な五輪塔が建っていました。
この蕾のような形をした焼き物は子安貝でしょうか、安産のお守りなどに使われる事の多い貝です。
寺務所の建物でしょうか、黒田家の家紋である「黒田藤」が刻まれています。福岡藩黒田氏は源氏という説がありますが、藤を使っているという事は藤原氏なのでしょう。黒田長政が日光東照宮に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれているとの事なので間違いないと思われます。なら黒田氏は一体どこからやってきたのか…現在でもはっきり分からないそうです。
創建時は3000坪という広大な敷地を持つ大寺院だった少林寺、さすがに街のど真ん中ですからね、区画整理によって大きく敷地を削られました。
山門を出てぐるっと寺の裏側に回り込むと、一般には非公開となっている黒田家の墓所を駐車場越しに見る事が出来ました。削られてしまった黒田綱之の墓は見えませんが、巨大な五輪塔は迫力満点。
アップで見てみると文字が刻まれています。400年以上の昔からココにあり、街を見続けてきた巨大な石塔。惹き込まれるような不思議な感覚、歴史の重みを感じる事が出来ます。
福岡の中心地、天神の繁華街にあるお寺「少林寺」は福岡藩と街の様子を見続けてきた生き証人。また月形洗蔵や黒田綱之といった権力闘争に敗れ、無念と失意の中で亡くなった人が葬られたお寺。藩内での同士討ちというか、粛清の歴史を今に伝えています。あまり目立たないお寺なんですけども、調べてみると思わぬ歴史ドラマと出会う事ができました。
福岡の街が整備されて400年以上、この地で営まれてきた人々の生活の歴史。こういう場所を訪れて過去の人と同じ地に建つことで、歴史の連続性を肌身で感じる事が出来る。街歩きはやめられません。
「少林寺」
住所:福岡市中央区天神3丁目6-14
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