円覚寺3

博多歴史観光「御供所町」周辺の寺社と見どころをまとめて紹介

博多の街といえばオフィス街や駅前の商業施設が有名だけど、実は京都よりも古い街だったりして神社・仏閣が沢山あるのです。



博多の寺社町は博多駅から意外と近かった

博多と言えば観光というよりもグルメやショッピング、あるいは交通の拠点や仕事関連で利用する人が多いと思うんだけれども、実は2000年以上もの歴史を誇る古い都市であったりもするんです。確かに街並みは今風というか地元の人が歴史に無頓着なので、どんどん壊して新しくしたために古い歴史の街っぽさは失われてしまっているんだけど、その名残りというか古い街の痕跡と言いますか、神社仏閣は驚くほど沢山残っているんです。京都や奈良に次ぐとも言われる寺社の密集地域、御供所町を中心とした寺町は博多駅の北西、住所で言うと博多駅1丁目から海に向かって御供所町、呉服町と続いています。

今回はそんな博多の歴史を物語る寺社を中心に、古都博多への入り口であった辻堂口門の近くに建てられた博多千年門から続く寺町を歩いて見どころを紹介します。

寺町の入り口「博多千年門」は古都博多の入り口となった場所

承天寺通り1
博多駅の横に建つ博多バスターミナルのビル

まずは博多駅博多口の脇にたつバスターミナルのビル。このビルを博多駅側から抜けて、反対側に出ます。


博多バスターミナルの裏から続く承天寺通りのスタート地点

博多バスターミナルのビルの裏にある大通りを渡ると承天寺通りという通りがあって、ここを真っ直ぐ550mほど歩くと博多千年門という寺町のウェルカムゲート「千年門」があります。

祇園駅通路6
博多駅と隣の祇園駅を繋ぐ地下連絡通路

博多区の観光案内サイトによると博多千年門の最寄り駅は祇園駅との事なので、地下鉄を利用したり博多地下街から続く地下通路を使っていく事も出来ます。

ちなみにこの地下通路には博多の発掘調査を紹介する展示スペースがあったりします。関連記事↓

承天寺通り10
承天寺の横に建つ博多寺社町の入り口、ウェルカムゲートの博多千年門

博多千年門が立っている辺りが古都博多の端っこになる場所で、ここから西へ50mほどズレた場所に辻堂口門という博多の入り口がありました。博多との境界には博多南堀(房州堀)と呼ばれる堀が石堂川(現三笠川)から那珂川へ東西を貫くように築かれ博多を守っていました。北を海、東西を川、南に堀、中世の博多が城郭都市だったといわれる所以です。なので古代から中世の博多というのは今よりもずっと狭い地域を指していて、現在の博多駅は博多の外に位置しています。

ただ博多駅が現在の博多と全く関係ない場所だったかというとそうではなくて、九州は大宰府を中心として統治されていたために各地から大宰府へと続く官道が設けられていました。博多の辻堂口から続く道は、大宰府へ向かう官道に繋がっていたんです。

そして現在の博多駅の筑紫口がある場所は奈良時代、約1300年前に大宰府へと向かう官道の美野(よしの)駅が置かれた場所。駅というのは「駅家(うまや)」が設置され、公務で移動する際に役人などが利用した馬が繋がれていた場所。遠方へ赴く際には駅で馬を変えて乗り継ぎを行い、情報のやり取りをしたそうです。1300年前に駅として使われていた場所に、今も九州の入り口となる駅がある。なんだか不思議ですよね。

また博多駅が現在の場所に移転したのが1963年のこと、その前はちょうどこの辺りが博多駅前。博多千年門の南側から地下鉄祇園駅辺りまでが明治から昭和にかけて博多駅があった場所でした。

辻堂口、博多千年門と承天寺周辺の見どころ


博多千年門の建設と合わせて整備された承天寺通り

博多千年門から先にある御供所町まで続く承天寺通りは承天寺の敷地を二つに分ける原因となった市道で、御供所町まで続いています。現在は綺麗に整備され、通りの両側に寺が立ち並ぶ人気の散策コース。この周辺で観光におすすめの寺社を紹介していきましょう。

博多の厄除けと言えばここ「若八幡宮」

若八幡宮1

博多千年門から少し東側に位置する博多で厄払いといえば「若八幡宮」というくらいに有名な神社、多くの人が訪れて厄除けの祈祷を受けています。創建時期は不明で江戸時代の古地図にはもっと西、辻堂口門の脇に建っていました。現在の場所に移転したのは…色々と調べてみたのですがなかなか見つからず、数少ない情報から見えてきたのは明治42年に旧博多駅がリニューアルされたとき。この時に博多駅は大幅に拡張され、東林寺(現博多駅前3丁目)と若八幡宮が現在の場所に移転したそうです。

若八幡宮11
江戸の力自慢が奉納した力石

厄除けはもちろんなんだけども、若八幡宮に行ったら見てもらいたいのが力石。江戸時代は力自慢が興業の人気者だったそうで、江戸の力自慢「木村興五郎」が持ち上げた力石があるんです。この木村という人は大阪や讃岐(香川)、尾州(愛知)などの興行でも名前が残っている人。「鶯の谷渡り」や「獅子の追いぶち」という得意技を駆使して力自慢を披露したそうです。

若八幡に残る力石は、この木村興五郎が持ち上げた石で現存する唯一のものだとか。興行の人気ものということは芸人ですよね、江戸芸人の生きた証がまさにこの石なのです。博多における芸人の聖地みたいな扱いにしても良いんじゃないかと思うくらいの力石、もっと有名になってもいいくらい。

若八幡宮14

続いて注目なのがこの鳥居。鳥居には「蝦夷地善光寺開法…」と彫られているんだけども、蝦夷地善行寺とは蝦夷地(北海道)を直轄地にした江戸幕府が建立した蝦夷三官寺の一つなんです。なんで博多に蝦夷にあった神社の鳥居があるの?と不思議に思ういながら彫られた年号を見てみると、文化八年となっているんですね。文化八年といえば西暦1811年、ゴローニン事件が発生した年。

ゴローニン事件というのは蝦夷の松前藩がロシア軍艦ディアナ号を国後島で拿捕、艦長のゴローニン中佐以下8人のロシア海軍軍人が逮捕拘束された事件。尊王攘夷に揺れた幕末に起こった一大事件なのです。日本の端っこの九州と北海道を強引に結びつけるような鳥居、本当になんでここのあるのでしょう。謎が深まるばかり。

厄除け神社として有名な若八幡宮なんだけど、厄年じゃない人には縁がないと思ったら大間違い、意外なところに見どころがあるんです。よかったらぜひ、立ち寄ってみてください。

若八幡宮を紹介した記事↓

「若八幡宮」
住所:福岡市博多区博多駅前1丁目1-29

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祈願受付時間:9:30から16:30※12月16日~12月30日,元旦,旧正月は、祈願受付はできません。

「承天寺」から戦国時代の有名大名へと繋がりました

承天寺通り18

承天寺通りを歩いているのだから、名前の由来となった承天寺を外すわけにはいきません。1241年に太宰少弐武藤資頼によって創建され、開山は臨済宗の僧聖一国師。ということで鎌倉時代に建てられた寺。

さらに創建した太宰少弐の武藤氏といえば中世九州を語るうえで外すことのできない超メジャーな名門守護家「少弐氏」の事。武藤資頼は平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将で、平氏に所属していたものの源平合戦で源義経が活躍した「一の谷合戦」敗北を受けて源氏に投降。源頼朝の家人となった人物。

公家の官職であった太宰少弐に武家の御家人でありながら任ぜられた初めての人、以後太宰少弐を世襲し資頼の息子である資能の代から少弐氏を名乗るようになる。資頼はさらに大友能直と共に鎌倉幕府の鎮西奉行を務め、肥前国、筑前国、豊前国、壱岐国、対馬国の守護として北九州最大の勢力を築いた。ちなみに同時に鎮西奉行に就任した大友能直は、戦国時代初期に九州の王といわれた守護大名である大友氏の祖となった人物。

承天寺の見どころと言えば何と言っても広大な敷地と禅寺ならではの巨大な建物。それらがもたらす厳かな雰囲気と、都会の喧騒を忘れさせてくれる静かな空間。入れないところも多いんだけれども、年代を感じさせる見事な唐門がありました。

他にうどん発祥の地だとか饅頭発祥の地だとか石碑が建っていたんだけども、結局のところ諸説あってはっきりしたところは分かりません。ただ中世の博多というのは海外から様々なものが入ってきて、時代の最先端を行く町だったというのは確かなようです。

承天寺通り22

で、ここ承天寺といえば何と言っても美しい庭が有名、一般拝観者は立ち入り禁止なので外から眺める事しかできないのが残念だけども…

いずれにしても博多の寺を調べて戦国の守護大名である少弐と大友に出会えるとは…戦国時代に北部九州で起きた争いの中心人物はちょうど承天寺が出来た頃に博多へとやって来たのですね。こんな所に戦国の有名人ゆかりの地があったとは驚きです。ただこの寺を建てた少弐の一族ですが、北部九州最大勢力として君臨し元寇でも大活躍するんだけども、最後はかなり悲惨な末路を迎えます。巨大勢力なのに、当主がよく討死にするんですよ。

でもって室町時代末期には山口の大内から執拗な攻撃を受け、ほんと執念深く徹底的に追い詰められます。少弐氏は筑前大宰府を捨てて肥前佐賀へと逃れて再起を図ろうとするものの、最後は助けてくれた佐賀の有力な武将である龍造寺氏をないがしろにしたというか、ひどい仕打ちをしてしまい、結局は龍造寺隆信に討たれて少弐氏滅亡。九州は島津や大友といった守護の力が強く室町末期には守護が戦国大名化していきましたが、少弐氏は守護大名になりきれずに下剋上によって滅亡しました。

ただ創建したと伝わる武藤資頼なんですが、どうやら時期が合わないようなんです。承天寺の創建が1241年なんだけれども、資頼さんは1228年に亡くなっているんだとか。じゃあ誰が…少弐氏が建てたのかどうなのか、謎ですねぇ。

という事で承天寺、仏殿と山門がある場所と本堂や庭園がある場所、区画整理によって分割されてしまってるんです。無茶苦茶しますよね、なんでこんなところに道を通したんだろ?今は承天寺通りというシャレた道になってるので、まあアリといえばありなのか。


承天寺の仏殿

仏殿があるほうへ行ってみました。仏殿を正面から見てみると、大きくて立派、迫力満点。そしてこの敷地にある正面の山門前の通り、ここが辻堂口門へと続く道。承天寺はちょうど辻堂口から入ると右手に見えた寺、左手には若八幡宮がありました。

寺というのは有事の際に軍が屯する駐屯地や砦としての役割を持っていましたから、博多の入り口を守る防御施設としての役割を持っていたものと思われます。

「承天寺」
住所:福岡市博多区博多駅前1丁目29-9

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「天興庵」小さいけども美しいお寺なのです


承天寺と同じ並び、隣に建つ天興庵

このお寺の詳しい事は分からなくて、ネットで調べた限りではな~んにも情報が出てこない。最近は博多も歴史を前面に出した観光に力を入れているみたいなんだけども、薄っぺらい観光ガイドみたいな情報しかネット上に無いんです。これは致命的だと思いません?観光の下調べに図書館で資料を漁る人なんていませんから、やはりネットでの情報発信ってのが重要だと思うんですよ。

山笠だとかうどん発祥だとか、そんなどこにでも転がっているような情報じゃなくて、目で見て綺麗というだけじゃなくて、本気で興味をもってファンになってもらうには、もっと知的好奇心をくすぐる深い情報が必要だと思うんです。

ということで天興庵、歴史云々は抜きにしても魅力的なお寺で、境内に入った瞬間に目を奪われるような美しさなのです。

承天寺通り26
天興庵の境内

建物自体は比較的新しいように見えるのですが、何と言っても建物の形や配置が素晴らしいんですよ。なんというんでしょう、生きている寺と言いますか、小さいけども日本の美がギュッと詰まったような境内。

承天寺通り27

承天寺は庭に入ることが出来なかったんですけども、ここはちゃんと中に入ってみる事が出来ます。

承天寺通り28

砂利の箒目が渦巻く文様、岩と苔、川のように見える砂利と石。小さいけど考え抜かれているというか、本当に美しい庭なのです。こんな庭を見ながら何にも考えずにボーっとコーヒーでも飲む。幸せでしょうねぇ。

「天興庵」
住所:福岡市博多区博多駅前1丁目29−14

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承天寺通りを歩いた記事↓

承天寺通り29
博多バスセンターから続いた承天寺通りの終点、右手が天興庵

天興庵を見学し、そこから更に北を見ると大きな通りが見えてきました。この道は国道202号線、いわゆる国体道路なんだけど、祇園町交差点から東側にあたるこの辺りは「辻の堂通り」なのだそうです。

この大通りを渡るといよいよ博多の寺町として有名な御供所町、次のページへと続きます。

「御供所町」博多の寺町、歴史スポットとして有名なエリア

貝原益軒の「筑前国続風土記」に記されている内容によると、昔、筥崎八幡宮の御供え物を調えた(必要な物を取り揃えた)ので、「御供所」という名が付いたとされる。

Wikipediaより

ということで、かつては筥崎宮のお供え物を取りそろえる場所であったという御供所町。ここは博多の東の端、すぐ脇は三笠川になっています。黒田長政が治める事となった福岡藩時代になって移されてきた寺もあり、博多東部の防御設備として川沿いに寺が立ち並ぶ地域。境界に寺を並べて防衛線とする。こういう寺の配置は博多だけでなく、大阪など多くの城下町で見られます。

御供所町というのは現在も使われている地名ですが、寺町といった場合には隣の上呉服町までを含めた地域を指すことが多いので、この記事でも上呉服町までを含めて見どころを紹介します。

「妙楽寺」中世博多の外交施設でもあった寺


妙楽寺の山門、この先に続くのは古き時代の風景

妙楽寺は非常に歴史のある寺で、中世博多において重要な役割を果たした寺でした。1316年博多の海岸近くに建てられた寺で山号を石城山といいます。石城は石築地(元寇防塁)にちなんだ博多の通称で、現在も地名が残っていて門前町もあったということですから、かなり大きな寺だったのでしょう。

博多の砂浜、港の近くにあった石築地の近くに石垣を組んで建てられた寺であったことから、平時は中国の王朝「明」から来る使節の宿泊所とするなど外交施設としても使われていたそうです。御供所町の町情報ポータル「御供所」によると妙楽寺貿易という名前が残っているほど、鎌倉時代末期や室町頃は貿易が盛んだったのだとか。妙楽寺が建てられた時代である鎌倉時代以降は探題が置かれ、九州を実効支配するための中枢となった博多ですから、有事の際には砦としての機能も持っていたと思われます。

ちなみに探題が置かれたのは京都六波羅と博多のみ。鎌倉幕府にとって貿易都市博多は、朝廷がある京都と同等とみなすくらいに重要な都市だったと思われます。

妙楽寺がこの場所に移されたのは初代藩主入国後、福岡藩の時代。

妙楽寺9
塔頭も含めて美しい妙楽寺の境内。

山門をくぐって一歩境内に踏み込むと、そこは時代劇のセットのような場所。まるでタイムスリップしたような光景に驚きました。周りには高い建物も少なく、塀に囲まれて続く通路と瓦屋根。とても美しいお寺。

和菓子の「ういろう発祥の地」と言われていますが、京都を発祥とする説もあり。発祥という割には博多でういろうは有名じゃないですよね、京都には江戸時代から続く有名なお店がありますけど…

妙楽寺12
本物の博多塀に出会った気がする

妙楽寺最大の魅力はこの境内の風景なんだけども、次いで注目したいのが博多塀。博多塀は戦国時代の戦乱で焼け野原となり荒廃した博多を豊臣秀吉が復興する際に、建物の残骸や瓦、石などを混ぜて塀を作らせたもの。なので壁の中にいろんなものが混ざり模様のようになっているんです。

今でも各地に残っているのですが、ほとんどが綺麗すぎるんですよ。焼け野原になった町を復興させるのだから間に合わせみたいなこともやったはずなんだけども、瓦などが形が揃い過ぎていたり、芸術的というか綺麗すぎる模様になっていたりするんですよね。

その点この妙楽寺にある博多塀は割れた瓦や石など、残骸としてのリアリティがハンパない。密度が濃かったり薄かったり、大きかったり小さかったり、これこそ博多塀の本当の姿なんじゃないかと思える博多塀があります。これは一見の価値あり、石なんて黒くすすけてるように見えて、焼け落ちた町を連想させます。

妙楽寺19
妙楽寺裏に建つレトロな巨大建築物は見応え満点。

そしてハカテン的に妙楽寺最大の見どころがこの墓所とレトロで巨大な建物とのコントラスト。凄いでしょこの画、新旧それぞれ歴史ある墓石と周りを囲むレトロな煉瓦塀。そして巨大な工場なのか倉庫なのか、煙突付けて蒸気を出せばスチームパンクの世界になりそうな圧倒的な存在感の建物。

この墓所には豊臣秀吉の九州仕置きから朝鮮出兵まで、その兵站を支えた博多の大商人「神屋宗湛」の墓や福岡藩士の墓があるそうです。

しかし背景と言ったら所有者に失礼かもしれないけど、墓地のバックに建つ建物がステキ過ぎて…写真じゃうまく伝えられないかもしれないけど、実際に見たら圧倒されますよ、この光景。

妙楽寺26
妙楽寺裏の建物を正面から見に行きました。

あまりにも見事な建物だったので、裏に回って正面から見てきました。まだ現役で使われている建物で、煉瓦に木枠の窓など本当にレトロ、なんとか残して守ってもらいたい。

ここに来る途中の道も鍵の字状に直角カーブしたり、古い木造長屋が残っていたりと歴史を感じる素敵なスポット。鍵状に曲がる道は町を守るための防御機構で、先を見通せないようにして伏兵したり敵の勢いを殺したりした昔の街並み特有の道。なんの資料も石碑も歴史を感じさせるももないけども、これも立派な博多の歴史遺構なんですよね。

妙楽寺はなかなか見どころのあるお寺、ぜひ立ち寄ってもらいたい場所です。

「妙楽寺」
住所:住所:福岡市博多区御供所町13−6

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妙楽寺の紹介記事↓

「聖福寺」日本最初の禅宗寺院


有名な聖福寺の山門、明治時代に再建されたもの

聖福寺は1195年、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝から与えられた土地に日本初の禅宗寺院として建立されたお寺。中世から近代にかけての聖福寺は寺内に寺内町を持ち、三十八もの塔頭寺院がならぶ広大なお寺でした。というか、いまでも6寺も塔頭があって広大な境内地を持つお寺。境内一体は国の史跡に指定されています。博多の街中にありながら、ほんと世界が違うというか静かな場所。

塔頭というのは大きな寺の中に建つ系列のお寺みたいな感じ。

寺内には古い建物が数多く残っているものの、一般拝観を行っていないために殆ど見る事が出来ません。

聖福寺3
聖福寺の総門、一般拝観者の入り口

聖福寺の総門は豊臣秀吉による九州仕置き、そののちに筑前を収めた小早川隆景によって築城された名島城の門を移築したと伝わる。ということは400年くらいの歴史がある門。

いきなり入り口から凄いんです。

聖福寺2
菊の紋が刻まれた勅使門

天皇の勅願所にある勅使門、聖福寺は勅願寺であるため立派な門があります。1700年代初頭に建てられたとされる門、向かって右に建っている石碑には「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」と彫られています。これは後鳥羽上皇が日本で最初の禅寺であることから贈った号。

勅使門から西へと伸びる道は櫛田神社の脇を抜けて、川端商店街のアーケードまで真っ直ぐ突き抜けて那珂川に至る。この道は中世博多の町を整備する際の基準線として使われた道です。


美しい外観の仏殿

最初の山門とこの仏殿が一般拝観で見る事の出来る建物の目玉的な存在。仏殿に配されている丸窓がハイカラというか、シャレた建物です。1585年に中興さてたという建物で、2012年に大規模な増築をしています。そのためか非常に綺麗で新しい建物に見えます。この仏殿の奥に寺の本体というか方丈など巨大な歴史建造物が立ち並んでいるのだけども、一般の人は入る事は出来ません。境内も広くて雰囲気は凄く良いんだけども、ほとんど見学できないというのが残念。

聖福寺22
見応えのありそうな建物の屋根が見えているだけに…

お寺が悪いという事じゃないんですよ、観光が目的で運営している施設じゃないですから。ただやっぱり歴史ある立派な建物が塀の向こうにずらりと並んでいたら、見たいと思うのが人情と言いますか、有料でも見たいと思っちゃいますよね。

「聖福寺」
住所:福岡市博多区御供所町6

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聖福寺の紹介記事はコチラ↓

聖福寺は観光だけでなく有料で写経が出来たり、座禅会なんかもやっています。で詳しくは公式サイトをご覧ください。

聖福寺公式サイト⇒http://www.shofukuji.or.jp/

節信院には尊王攘夷に燃えた加藤司書の墓があります

節信院5

節信院は聖福寺の境内に建つ塔頭寺院の一つ、綺麗に整備された美しい寺院です。この寺院は幕末期の福岡藩家老、加藤司書こと加藤徳成の墓がある事で有名。幕末の福岡藩といえば藩論をまとめきれず、最終的には幕府支持というか事なかれ主義を貫いてしまった事で地味なんですよね。明治維新後も佐賀で勃発した佐賀の乱鎮圧に兵を出すものの、小銃すらまともに持たない少数の佐賀藩兵に手も足も出ずにグダグダやってましたし。圧倒的に優れた武装をしていたんですけど、佐賀の抜刀隊にやられて銃を奪われて逆撃される始末。まったく福岡藩兵は…

そんな福岡藩において尋常ならざる熱意をもって尊王攘夷を唱えたのが加藤司書。外国との戦闘も想定していた過激な人で、最悪の場合は福岡城を放棄する事態も想定し、藩主を守るための逃げ城を現宮若市の犬鳴という場所に城を築いた人。筋金入りの攘夷論(鎖国を守り外国を打ち払うという論)者でした。

参考:宮若なび福岡藩犬鳴御別館


聖福寺の境内を通る道路、このような道路が整備されるほど聖福寺は広いのです。

節信院が建っているのは聖福寺の境内地の中、とにかく聖福寺の広大さに驚くばかり。綺麗に整備されていて周りには塔頭寺院が立ち並ぶ、とても静かで散策に最適。

節信院8
加藤司書の墓、罪を赦され正五位の官位を送られています。

幕末の福岡藩内では幕府に従うべきという佐幕派と、外国船を打ち払い天皇を中心とした国家を目指すべきだという尊王攘夷派が激しく争っていました。加藤司書は福岡藩尊王攘夷派の首領格、勤王党を率いるリーダー的な存在でした。

結果として尊王攘夷派は権力闘争に敗れ、勤王党の藩士140人が逮捕、捕縛。加藤司書以下7名が切腹、14名が斬首、15名が流刑という厳しい処分が下されました。

加藤司書が切腹したのは今は無くなっている「天福寺」、大博通り沿いにある櫛田神社の一の鳥居にほど近いビルに加藤司書が残した辞世の句「君かため盡す赤心(まごころ)今よりは、尚いやまさる武士の一念」という言葉と共に、石碑が建っています。

「節信院」
住所:住所:福岡市博多区御供所町11-20

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節信院を紹介した記事↓

鎌倉幕府の残滓、博多に刻まれた三つ目鱗


北条家の三つ目鱗紋、関東の名門家の家紋が刻まれた円覚寺

博多の町を歩いていると、時どき北条家の家紋が刻まれている寺を見かけるんです。北条家といえば鎌倉幕府の執権、将軍家衰退のあと幕府の実権を掌握した一族ですよね。戦国時代になれば後北条といって小田原城の北条家が出て来るんだけども、そもそも博多とどんな繋がりがあったのか不思議だったんです。

博多の歴史に興味を持たなければどうという事も無く見逃していたと思うんですけど、このサイトを始めてから色々と調べるようになり、博多は鎌倉幕府との結びつきが非常に強かったという事が分って来たんです。というか現在の博多の原型というか、博多が一番賑わっていたのが鎌倉幕府から室町幕府の戦国以前までじゃないかと思うんです。2000年以上前から栄えていたとは言うけども、それ以前は大宰府が九州の中心にあり博多は貿易港でしたが佐賀の神埼なども海外貿易が盛んだったようです。

鎌倉時代に入り幕府は鎮西奉行を博多に配置し九州の守護や御家人の統制にあたらせ、大宰府の機能も引き継いで政治経済の中枢として整備したようです。聖福寺や承天寺、妙楽寺など博多を代表する鎌倉時代に創建された寺院が沢山ありますしね。元寇後に鎮西探題、鎌倉幕府が倒れた後は室町幕府により九州探題が置かれ九州の中心地として博多は発展を続けます。しかし戦国期には相次ぐ戦乱で荒廃し、豊臣秀吉による再建で復活するかに思えましたが江戸時代の鎖国政策で九州経済の中心としての役割は長崎に移り、福岡藩の城下町としてそれなりの都市ではあったんでしょうけども、それほど突出した存在ではなかったようです。

そんな博多の黄金期ともいえる時代を築いた鎌倉幕府、その名残がこの鎌倉幕府執権である北条氏の家紋なんですね。

円覚寺8
美しい境内を持つ円覚寺、正面の建物は庫裡という建物

円覚寺は鎌倉時代中期、五代執権北条時頼によって創建されました。北条時頼は元寇を撃退したことで有名な八代執権北条時宗の父親。偶然見つけた三つ目鱗紋に惹かれて寺に入ってくると、とんでもない人物にぶち当たったようです。

そしてこの寺も1636年、福岡藩になってから博多の東側を守る寺町、現在地の御供所町へ移転しているんです。


細部まで手入れが行き届いた円覚寺の庭 

円覚寺は千利休の教えを受け継ぐ茶道南方流で有名なお寺でもあり、隅々まで手入れされた庭がとても美しい寺です。

大きな寺ではないけども、本当に綺麗なお寺なので一見の価値あり。

「円覚寺」
住所:福岡市博多区御供所町13-11

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円覚寺の紹介記事↓

円覚寺公式サイト⇒http://www.engakuji.org/

「東長寺」博多大仏と地獄めぐり


朱と金が美しい東長寺五重塔

大博通り沿いに建っていてバスから見える見事な寺院、日々多くの観光客が訪れる人気の寺院が東長寺です。806年に弘法大師空海によって建てられたと伝わる寺院で、御供所町にあるお寺の中でも最古級の歴史あるお寺。

境内には見事な五重塔が建っていまして、2011年に完成した新しい建物ではあるのですが、本来の五重塔とはこんなに見事なものだったのかと思わず見とれてしまいます。仏教が華やかだったころの姿を今の時代に見せてくれる五重塔、博多の寺院を紹介する写真としても有名です。


東長寺の大仏は撮影禁止の為、福岡市のフリー素材を利用:提供福岡市

東長寺と言えば何と言っても日本最大の木造大仏「博多大仏」ですね。この大仏も新しい物ではあるのだけど、正面に立って大仏と目を合わせるとジッと見つめられているような、心の全てを見透かされているような不思議な感覚を覚えます。そういう効果も計算して建てられているのかもしれませんが、とにかく行くことがあったら正面に立って大仏の目を見てください、とても神秘的な体験ができます。

さらに大仏の台座は地獄めぐりのアトラクションとなっているので、合わせて楽しむことができます。

東長寺22
寺の外からも見える巨大な福岡藩主の墓所

東長寺には福岡藩主黒田家の墓所もあり、葬られているのは二代忠之、三代光之、そして八代の治高。藩祖である黒田官兵衛や長政の墓は崇福寺にあります。刻まれている文字を読んでみると時代によって藩主を「国主」と書いたり「太守」と書いたりしていて、この違いがどこから来るんだろう?などと考えてみるのも面白いんです。

このお墓は寺の外からも見えるくらい巨大なので、大名の墓とはどんなものなのか、立ち寄りやすい場所なのでぜひお参りしてみてください。

参考:よかなび崇福寺

「東長寺」
住所:福岡市博多区御供所町2−4

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拝観時間:9:00から17:00

東長寺の紹介記事↓

御供所町でハカテンがおススメするお寺の紹介が終わると、最後は博多のレトロゾーン上呉服町を次のページで紹介します。

「上呉服町」博多の旧市街、歴史を感じる町


聖福寺から北へと抜けて来た場所、正面に聖福寺の一番北にある門が見えています。

聖福寺の境内から北側に出ると昔の面影を色濃く残す「上呉服町」という地域に出ます。地名としてではなく地域としてみる時には、この辺りも御供所町に含まれることが多い場所。博多の旧市街の通りが今も残っているレトロな風景が魅力的なのです。

「普賢堂通り」博多で一番古いといわれる通り


西教寺山門越しに見る普賢堂通り

博多区上呉服町、聖福寺の少し北側を東西に走る通り。見るからに江戸時代の城下町っぽい道なんですけども、御供所町の観光サイト「御供所語り」では博多最古の道なんて紹介されている古い道なのです。通りに建つ建物は新しく立て替わって古い町並みの面影は薄れてきているけど、それでもこの狭い道を見ると「あ~古い道だ…」と一目で分かる由緒正しき博多の小路。

名前の由来は通りの中ほどに今も現存する「普賢堂」という寺院、元は大日堂というお堂が建っていて大日像があり、大日像の側に普賢像(おそらく普賢菩薩の像)があったそうです。その普賢像は盗難にあい山口へと持ち出され、明治に入ってから叶院というお寺が合併されて現在の寺院になっているのだとか。

筆者の推測と断ったうえで書くと、博多は戦国時代の一時期に周防山口の大名大内氏に支配されます。ひょっとしたらその際に持ち去られたのかもしれません。

普賢堂通り13
通り名の由来となった普賢堂

普段は一般に公開されていないためお堂を直接見る事は出来ませんが、立派な唐門を備えた寺院です。

普賢堂通り15
普賢堂の前から西教寺方向

昭和の建物などが残っていて、昔懐かしいようなレトロな街並み。古都博多の旧市街として日本らしい風景が続く通りですが、やはり新しい建物がかなり混ざっているんですよ。

「貸さない、売らない、壊さない」という三原則を打ち立てて江戸時代にタイムスリップしたような古い町並みを守った観光地もあるけども、そんなのはレアケースであって、やはり地域住民が一丸となって古い町を守っていくのは容易じゃないんでしょうね。観光と住民の利便性は相反する関係にあるために観光を重視すれば地域の住民が困るし、住民の利便性を優先すると観光地化は出来ない。なかなか両立できないのでしょう。福岡はどこへ向かおうとしているのか…

いずれにしても数百年間、この道を多くの人が歩いてきたわけです。過去に暮らした人々の生活へと思いを馳せて、歴史の連続性を肌で感じる。それこそが古い街を歩く楽しさの一つ。想像力を働かせながら歩いてきました。

「普賢堂通り」
住所:福岡市博多区上呉服町6-8(叶院普賢堂)

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普賢堂通りの紹介記事↓

「西門通り」博多を守る防塁跡、元寇第二防塁

西門通り13

聖福寺から北へと向かい先に紹介した普賢堂通りを過ぎ、もう一本となりに並行して「西門通り」という道があります。この道は博多を守る防御施設である防塁の跡、鎌倉時代に朝鮮・元の連合軍による攻撃を受けた博多の町。鎌倉幕府は素早く対応して鎮西探題を設置すると同時に、博多の町を「博多城」と呼んでも差し支えの無いほど堅固な城塞都市へと作り変えていきます。その際に築かれたなかで教科書でも紹介されて有名な防御施設が元寇防塁、博多でいうところの石築地(いしついじ)です。

石築地跡は博多小学校の地下に展示室があります。

最前線は博多のみならず博多湾に広く築かれた元寇防塁(石築地)があり、さらにその内側、石築地から三町(327m)後方にもう一つの防塁である土居を築きました。鎮西探題があったのは祇園と呼ばれる場所、東長寺や櫛田神社の近く。そこを守るための防御施設の跡がここ、西門通りなのです。


海から平坦地が続き、いきなり不自然な高低差のある坂になてっている。上辺が西門通り。

この土居の長さは東西に900mで、那珂川と三笠川(石堂川)に挟まれた博多をほぼ横断する長さ。高さは約7メートル、下辺25mで上辺7mという巨大な防塁でした。

通り名の由来はかつて聖福寺の西門があった事に由来していて、中世に描かれた聖福寺の図によるとこの辺りも聖福寺の中に含まれているんです。聖福寺は寺の中に町があったというくらいですから、本当に大きなお寺だったんですね。

最初の朝鮮・元連合軍による襲撃では準備が十分ではなく大きな損害を出した鎌倉幕府軍でしたが、二度目の襲来時にはこのような防御機構が十全に働き一歩も上陸させることなく撃退しています。

西門通り19
西門通りに残る古い町家「吉住家住宅主屋」

西門通りも博多の他の地域と同じく多くの古い建物が失われ、昔の街並みは殆ど残っていません。それでも僅かに古い町家が残っていたり、大正二年創業の老舗蒲鉾店「西門蒲鉾」の本店があります。

上の写真は重要文化財「吉住家住主屋」、昭和4年に建てられた町家で間口を狭く奥へ長い見事な建物。とても綺麗な状態で残っています。

博多西門通りに北面する。間口五・五メートルの二階建。渡り廊下を介して台所棟を背面に付設。いずれも切妻造桟瓦葺。二階に座敷、一階に通り土間と仏間等を設ける。正面に庇を付け、二階に格子戸をたて、一階を全面ガラス戸とし、近代的な町家構えをつくる。

文化財オンラインより

西門通り8

古い建物は殆ど失われたとはいえ、途中で建物を切り離した跡が生々しい長屋風の建物など昭和の街並みが続く通りはレトロな雰囲気が満載。

有名なグルメスポットなどもあり博多の下町的な雰囲気を味わえる場所です。元寇に備える防塁として築かれた場所が今は道になっていて、戦国期などの博多が戦場となった際にはどういう役割をしていたのかとか、いろいろと過去の出来ごとを想像しながら歩くのが楽しい通り。

ここを含めて上呉服、中呉服、下呉服というエリアは比較的古い町並みが残っている場所なので、博多の町歩きを楽しみたいという方にはおススメの散策スポットになるんじゃないでしょうかね。

「西門通り」
場所:福岡市博多区上呉服町

Googleマップへ

西門通りを紹介した記事↓



博多の歴史スポットを歩いてみて…

西門通り2
大博通りから西門通りへの入り口にある博多古図

博多の町というのは2000年以上の歴史があるといわれていて、江戸時代までの博多は今よりもずっと狭い地域のことだったんだけども、町の形としては非常に良く残っています。建物や街並みは新しくなり古い物は殆ど残ってませんけど…

実際に博多の歴史に興味をもってから博多を歩いてみると、豊臣秀吉による太閤町割り以前の情報がほとんどないんです。本格的に貿易港として整備され九州経済の中心地として栄えた鎌倉・室町時代のこととか、支配権をめぐって巨大勢力による支配権争いが繰り広げられた室町後期から戦国時代などの情報を探すのが大変なんです。江戸時代になると博多の貿易港としての役割は失われ、どこにでもある城下町になってしまいます。今の博多に溢れているのは、山笠を中心にした情報ばかり。

やはり博多が一番輝いていた時代の情報が知りたいですよね、特に戦国期に大内、大友、毛利、少弐、龍造寺、島津、あとは大友家臣の高橋氏とかね、博多を舞台に様々なドラマが繰り広げられていたみたいなんだけども、情報があまりにも少なすぎて困っています。

という事で個人運営の当ブログでは大したことはできませんと逃げの断りをしながらも、自分で興味をもって調べた事などを元に博多の町を歩き、あまり表に出てこない博多の黄金期にまつわる情報などを発信していきたいと思います。歴史などは全くの素人、中卒のダメおやじがやることですから間違ってたらごめんなさい、指摘していただけると泣いて喜びます。

果たしてハカテンの歴史コーナー、どこまでやれることやら…まあ、ボチボチやっていきます。

 

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