名前だけは有名だけれども、その実態がイマイチ良くわかっていない元寇。その第一回目、文永の役において主戦場となった赤坂、鳥飼を巡る戦い。その戦場跡を歩いてきました。
博多は元に占領などされていなかった
1268年、モンゴル帝国の流れを汲む中国大陸の覇者「元」から日本の朝廷へと使者が送られました。元への従属を求める書簡を携えた使者の申し出に対し、朝廷は拒否するものの武力衝突の可能性を危惧して軍を統括する鎌倉幕府へ問題への対処を依頼します。これを受けた鎌倉幕府は情勢の打開を図りますが1271年にはは元との開戦は確実として、迎撃体制の構築に着手。1271年に鎮西(九州)の将士に海防に重点を置くように命令を出し、1272年からは異国警護番役という制度を設けて博多湾沿岸の防衛体制を整えます。
そして運命の1274年1月、元の皇帝フビライは日本侵攻の命令を出し、元・高麗(朝鮮)連合軍が出陣。1274年10月6日に対馬が攻撃を受けます。鎌倉幕府軍による日本防衛戦、文永の役の始まりです。
鎌倉幕府が闘った対外戦争、元寇の初戦である文永の役。その中でも資料に残る決戦が行われた赤坂、鳥飼の戦いの様子を、科学的に元寇を分析した書籍「モンゴル襲来と国土防衛戦」北岡正敏著を元に現地を歩きながら想像してみたいと思います。
博多湾沿岸は十分な防衛体制が整っていた
博多区大博通と昭和通り交わる交差点「蔵本」付近、当時の海岸と思われる場所。
1274年10月6日に元・高麗連合軍の襲撃を受けた対馬はすぐさま博多へと元軍襲来を伝える使者を派遣、対馬守護代宗氏の家来小太郎、兵衛次郎は博多で防衛の指揮をとる筑前守護少弐景資に元の侵攻が始まった事を報告。十月十八日には九州の諸侯が博多に参集、迎撃のために配置に付きます。当初の兵力は五千騎、人数にして25,000人から50,000人の間と思われます。
ウェブ上で見かける元寇について書かれたサイトなどでは、鎌倉幕府軍の兵力について人ではなく騎と書かれている事が多いですよね。これは一人という事ではなく騎は馬に乗った武士を表し、鎌倉時代の武士団は一人の武士(一騎)に徒歩の郎党や従者など5から10人の戦闘員と補助戦闘員が随伴した小集団であったため、百騎や千騎という記述があった場合の総兵力はその5から10倍になります。
よく元寇の説明で一騎がけをする鎌倉武士に対して元・高麗軍は集団戦で挑み、鎌倉武士団を圧倒したという記述があります。これは大きな誤りです。
鎌倉武士団は騎兵である武士を中心とした小集団が集まり、大集団を構成して集団戦で戦うのが一般的でした。当時の文献などによると、徒歩の兵が盾を持って前面に並び盾のすき間から武士や弓持ちの歩兵が狙撃する、弓戦が野戦の基本だったようです。お互いに前進して乱戦になれば、徒歩の薙刀や打刀を持つ白兵戦担当が接近戦を行っていました。
話は戻って10月18日に兵の招集を終え、防衛体制を整えた鎌倉幕府軍。その布陣はどうだったのかという話ですが、この辺りは詳しい資料が残っていないようです。前線の本陣はどこだったのか、それだけでも諸説あってはっきりしません。ただ幕府軍の主力は大まかに筥崎(福岡市東区)の沿岸に豊後の大友氏、息の浜(博多)には筑前守護の少弐氏が陣取っていたというのは確かなようです。恐らく筥崎が本陣、息の浜が前線司令部のような感じだったのではないかと推測しています。
元・高麗連合軍赤坂方面軍の上陸地点「百道原」
元寇防塁、百道地区。文永の役ではまだ防塁はありませんでしたが、当時の海岸線がここにあった証拠です。
九州各地の諸侯のうち博多周辺部の軍勢が防衛体制を整えた10月18日の翌日、10月19日に元軍が高麗軍を主力として博多周辺へ上陸を開始します。参考にした書籍によると、元軍の上陸開始は福岡市西区の今津、そして赤坂から博多を側面攻撃するための赤坂方面軍が百道原に上陸したとしています。
元寇防塁の殆どは埋まっていて、上底部の石が僅かに見えます。
今津へは19日上陸説と20日上陸説があり、上陸した元軍を迎え撃ったのは地元である糸島の原田氏、深江氏、波多江氏を始め、異国警護番役としてこの地域を管轄していた大隅・日向の御家人、少なくとも1600人以上。さらに松浦党の勢力圏のすぐ近くでもあり、松浦党も加わって強固な防衛態勢がとられていたと思われます。ここへ上陸してきた元軍の兵力は600から2000人と、研究者によってかなり幅があります。
今津浜の水深は浜から500メートル地点で9メートルほど、元軍戦艦の喫水を3メートルとすれば浜から170から190メートルの地点で投錨していた事になります。もし2000人の兵が上陸するとなると、当時の記録に残る1隻当たりの兵員輸送能力からみて、17隻の戦艦が必要になります。そして、戦艦がそれぞれ1艘牽引している上陸用舟艇、16人乗りの「抜都魯」計17艘で浜へ向かって上陸開始したならば、一度の上陸で運べる人数は272人。これを幾度も往復するわけです。
そこへ鎌倉武士団が上陸阻止戦闘を開始、浜辺での戦闘が始まります。元軍が戦闘を継続するために上陸後も矢などの補給を受けるには、上陸用舟艇をさらに往復させて物資を運ぶ必要があります。対して鎌倉幕府軍は元の侵攻に備えて数年前から準備していたわけで、とうぜん補給も容易で明らかに鎌倉幕府軍が有利。結果として上陸した元軍は壊滅したか、撤退したものと思われます。実際に今津浜に上陸した元軍の動向について、何も記されたものが残っていません。大した脅威にはならなかったのでしょう。
元寇防塁西新地区、百道地区から徒歩で数分の距離にあり同じ浜として繋がっていたと思われます。
続いて元の赤坂方面軍、高麗軍を主体とした有力な部隊が上陸を開始。上陸地点は百道原。現在の西新と藤崎の北方にある海岸線と思われ、ここには元寇防塁が残っているために当時の海岸線がとても分かりやすくなっています。上陸地点を少し内陸に入ると祖原山と紅葉八幡宮で有名な紅葉山があり、そこから東方向には鳥飼潟と呼ばれる湿地帯、次いで現在の福岡城がある赤坂山、その先が博多となります。
国土地理院の福岡市立体地図に想像で海岸線を黄色で示してみました。書籍を参考にした想像図です、正確ではありません。
祖原山の北方に位置する百道原から上陸を開始し、祖原山に陣地を構築して橋頭保とした元軍。鎌倉幕府軍は上陸阻止を断念、僅かな斥候を配置して現在福岡城跡がある赤坂山を拠点に防衛線を構築し、最終防衛ラインを博多の息の浜としています。これは上陸地点付近は湿地帯、干潟になっていて戦闘に不向きであったためという記録が残っています。
福岡城が建てられた赤坂山は古代には大津城という城が築かれ、後に警固所と名前を変えて博多の防衛拠点として整備されました。元寇の前、大陸の騎馬民族による襲撃(刀伊の入寇)があった際にも赤坂山に陣を敷いて戦っています。
百道地区に残る元寇防塁から海の方向、鎌倉時代は砂丘のようになっていました。1274年の元による侵攻時は目の前に大船団が停泊し、小舟がひっきりなしに往復していたはずです。この場所は元軍に埋め尽くされていたのかもしれません。
1274年10月20日の午前8時20分ごろ、元軍は百道原への上陸を開始すると同時に祖原山を確保。そのまま一部の部隊は赤坂へ向けて進軍を開始します。筥崎から息の浜の前線司令部に異動した少弐景資は湿地帯を抜けたところにある平地、赤坂まで敵を引き込んで迎撃戦することを事前に決定し各所に部隊を配備して待ち受けます。
元寇の戦いを細かく書き記した蒙古襲来絵詞に登場する竹崎秀長は、大宰府を出発して主力が集結している筥崎へ移動、さらに前線司令部がある息の浜(博多)へ移動し、赤坂方面への進軍を命じられています。その際に住吉神社付近で赤坂の戦闘で敵将の首級をあげた菊池軍と遭遇、このとき既に赤坂での決着が付いていました。その後も鳥飼、祖原山と竹崎秀長が追撃戦に参加している事を考えると、竹崎勢は午前中に菊池軍と遭遇したと考えられ、赤坂の戦いは朝早くに開戦し短時間で決着したものと推測できます。
赤坂山防衛戦
赤坂山(現福岡城跡)
赤坂山山頂(福岡城天守台)から百道浜方面の眺望、目の前には大濠公園。この公園は、鎌倉時代に草ヶ江という入り江。その周辺は干潟になっていました。
他のサイトなどを見てみると、息の浜に司令部を移した少弐景資は敵上陸の報を聞いてから菊池氏などの肥後勢を赤坂に向かわせたことになっています。しかし当時の博多と赤坂は海で隔てられており、現在のように直線での移動は不可能。住吉神社や美野島方面、南側へ大きく迂回しなければなりませんでした。そのため元軍が上陸、進軍開始を知ってから前進させたのでは開戦に間に合いません。
菊池勢が午前中の早い時間で元軍を打ち破ったとなると、肥後勢は事前に陣地を構築し赤坂で敵軍を待ち受けていたものと思われます。足場の悪い戦場で遭遇戦をやるよりも、上陸作戦や干潟を進軍して疲弊している敵を高地に陣取って迎撃する方が有利。理にかなった作戦です。
赤坂周辺の守備を受け持っていたのは肥後、肥前の軍勢、敵の上陸より早く赤坂山とその周辺部に布陣していたものと思われます。
福岡城三の丸跡、高台のようになっている場所で黒田官兵衛が隠居後に暮らした館跡があった場所。こういった高地を利用して元軍は赤坂山を攻撃したのではないでしょうか。
大宰府へ進軍するために、博多方面へと進軍する高麗軍を主力とする元軍。最初に赤坂方面へと進軍した兵力は600人強と推定、恐らく本隊の侵攻ルートを確認する威力偵察のようなものだったと考えられます。元軍にとって九州は未踏の地、全く地理も分からないのですから、偵察隊を先行させるのは当然です。赤坂山に布陣していたのは肥後の菊池勢120騎、侘麿勢100余騎を始めとする幕府軍約220騎、1100から2000人前後。
百道に上陸した元軍の先遣隊は博多への侵攻ルートを探るために鳥飼を抜けて赤坂に進出、そこで迎撃に出た菊池氏などの肥後勢と戦闘となり敗北。鳥飼、祖原山方面へと撤退していきました。
鳥飼潟の決戦
福岡市城南区塩屋橋付近
赤坂で戦闘が行われている間も元軍の上陸は続き、祖原山に陣地を構築。赤坂で敗れた元軍は、祖原山の陣地へと撤退。この時に蒙古襲来絵図に書かれている竹崎秀長が最前線に到着、赤坂から敗走する元軍の追撃に参加。竹崎秀長の軍勢は5騎、徒歩の兵も併せて30から50人と推定されます。
敗走する元軍は祖原山と別府という場所にある塚原へと撤退、塚原へ逃げた兵は少数であり、鳥飼という場所で元軍主力との合流を計ります。鎌倉幕府軍は赤坂周辺に駐屯していた肥後、肥前の軍勢が敗走する元軍の先遣隊を追撃、このとき竹崎秀長は鳥飼干潟にある塩屋の一本松で元軍主力と遭遇、藤源太資光が味方の到着を待って攻撃を仕掛けてはどうかと進言するも、手柄を欲していた竹崎勢は単独での攻撃を敢行します。
教科書にも掲載されている有名な絵、蒙古襲来絵詞の一部。鉄はうが炸裂する中、奮戦する竹崎秀長。画像はwikipediaより。
塩屋での竹崎秀長の奮戦の様子を描いた絵は、教科書などでも取り上げられて有名ですよね。これは竹崎秀長が自らの戦いの様子を描かせた蒙古襲来絵詞のワンシーン。単騎で敵に肉薄しているように描かれていますが、実際には徒歩の兵が共に戦っていました。この絵は自らの手柄をアピールするための物なので、わざと自分が目立つように他の兵は描かれていません。というか、こういった絵の中に身分の低い徒歩兵が描かれる事は殆ど無いようです。
この戦いで竹崎秀長は右肩と左腿に矢を受け、馬も射られたと書かれています。
竹崎秀長の救出に向かう肥前の白石勢。画像はwikipediaより。
竹崎秀長が窮地に陥ったまさにその時、ともに進軍していた肥前の白石勢が援軍に駆けつけます。この絵には9騎が描かれていますが、白石勢100余騎、500から1000人の兵力がありました。蒙古襲来絵詞には騎兵しかかかれていませんが、騎兵だけで敵軍に突撃などすれば弓の的になり、乱戦の中では馬上で槍や薙刀を振るい続けるなど体力が持ちません。結局馬から降りて戦うか、馬から引きずり落とされて殺されるだけ。そもそも騎馬の武士は槍も薙刀も持ってません。とうぜん徒歩兵が盾を持って先行し、その後ろから弓兵が矢を射かけ、さらに薙刀や熊手、打刀をもった接近戦担当の徒歩兵が周囲を護衛していたはずです。
ここで注目すべきなのは、蒙古襲来絵詞に描かれた白石勢が魚鱗の陣形で進軍しているということ。集団で陣形を組んで前進している姿が描かれているという事は、よく言われる鎌倉武士は単騎で戦い集団戦が苦手だったという説が誤りだという証明です。
福岡市城南区鳥飼1丁目と城南区の鳥飼4、5丁目を結ぶ塩屋橋
実際に戦闘が行われた鳥飼の塩屋がどこなのか明確に分かりませんが、現在も鳥飼という地名と、塩屋橋という橋が残っています。ひょっとしたらこの場所が蒙古襲来絵詞に書かれている塩屋の一本松があった場所かもしれません。あくまで推測ですが。
祖原山の戦い
福岡市早良区祖原にある祖原山
鳥飼潟での決戦で敗れた元軍は陣地として確保した祖原山へと撤退し、防戦の構えをとります。勢いにのる鎌倉幕府軍、赤坂から追撃してきた肥後、肥前勢と竹崎秀長。そこに地元の勢力である原田勢などが加わり、元の上陸部隊が籠る祖原山の陣地へと攻撃を開始します。
公園として整備されている祖原山。
祖原山山頂にある元寇の戦場跡を示す石碑
鎌倉幕府軍は追撃戦に移ってから続々と援軍が到着、元軍は完全に追い詰められてしまいます。ここから無事に海まで撤退できたのかどうかも不明ですが、姪浜まで追撃を受けながら撤退し船に乗って逃げたという説もあります。しかし百道に上陸し、そこに船があるなら姪浜から戦艦に戻るのは難しいんじゃないかと素人考えでは思っちゃうんですけどね。間に室見川もあるし、追撃されながらどうやって川を渡ったのかと…突っ込みいれちゃいます。
博多沿岸を始め、博多湾内は遠浅の浜辺であったために大型船は陸地に近付けませんでした。ギリギリまで近づいてしまうと座礁する恐れがあります。なのである程度沖合に停泊し、そこから小型の船にのって上陸しました。この小型船に乗れる人数は16人。それが何往復もするのですがら、十分な兵力で待ち受ける鎌倉幕府軍に対して少数ずつの兵力を逐次投入する形となり、どうやっても元軍が不利です。
祖原山山頂からの眺め
祖原山にある元寇の戦場跡である事を記した看板。
先にも述べましたが鎌倉幕府軍が姪浜まで追撃し、そこから元軍が撤退したという説はやっぱり無理がありますね。母船の戦艦はすぐ目の前の百道原に居るわけですし、乗ってきた上陸用舟艇もそこに残されているというか物資の荷揚げ中かもしれない。なのに全く関係ない場所に逃げてしまえば、いずれ矢が尽きて武器も破損し食料もなく壊滅することは目に見えています。さらに言うと午前中から一連の戦闘で夕方から夜に入っていく時間帯、全く知らない土地、しかも敵軍の目の前。このような状況で、敵よりも少数の軍勢が野営するなど無謀というほかありません。敵を撃退して士気が上がる鎌倉幕府軍からの夜襲を受ければ、もはやどうする事もできないでしょう。
なので上陸した部隊はほぼ壊滅状態、僅かな一部の兵が命からがら上陸地点である百道原へ逃れ、そこから母船へと帰り着いたというのが実情じゃなかったでしょうか。百道原に上陸した元の赤坂方面侵攻軍と鎌倉幕府軍が闘った赤坂、鳥飼の戦い。そして祖原山でも元軍は敗退してしまいました。
博多息の浜への上陸作戦
博多区奈良屋町にある防塁資料館で展示されている、NHK大河ドラマのセットを再現した模型。鎌倉時代の博多、息の浜だそうです。
蒙古襲来絵詞のような資料は残っていないものの、元軍の最大兵力が投入されたのは博多(息の浜)への上陸作戦だったとされています。百道原上陸戦に投入された兵力が最大で5000程度だったと推定されている中で、博多へ直接上陸を試みた兵力は10000人から13000人。対する鎌倉幕府軍は25000人。
博多の周辺は特に水深が浅く、大型船は全く近寄ることが出来なかったそうです。そのため上陸戦を行うために動員された戦艦89隻は、息の浜沖合1キロ以上離れたところに投錨していました。それぞれが16人乗りの上陸用舟艇を各1艘けん引していると仮定して、一度に上陸できる兵員の数は1424人。参考文献によると、往復の時間などを考慮して1日の戦闘で5回の揚陸が可能、計算上は一日の上陸作戦で7120人の兵士を上陸させることができたそうです。
待ち受ける鎌倉幕府軍は続々と各地から援軍が到着している状態で、時と共に兵数が増えて行きます。攻める元軍は上陸用舟艇の数に限りがあり、少数ずつの逐次投入とならざるを得ず、さらに兵士だけでなく矢や食料などの物資の荷揚げもしなければなりません。海岸からの弓矢による攻撃に晒され、上陸したら目の前には倒しても倒しても現れる新手の武士団。もはや勝ち目などあるわけもなく、息の浜で繰り広げられた激戦で元軍は壊滅的な打撃を受けて数千の屍を晒す結果となったと推測できます。
しかも全ての兵を上陸させることが出来ず、小舟を失い上陸手段を無くした戦艦の中にはそれなりの兵数が残っていたと思われます。他にも筥崎へ上陸した部隊もあったようですが、いずれにしても同じように撃退されたことが容易に想像できます。つまり元の日本侵攻軍は鎌倉幕府の軍勢を前に手も足も出ずに敗退、撤退を余儀なくされました。
負けるべくして負けた元・高麗軍
ユーラシア大陸において無敵の快進撃を続け、アジアからヨーロッパまで広大な地域を版図に収めたモンゴル帝国。陸上では最強であった軍団も、海を渡っての渡海作戦は今回が初めての経験であり十分な準備が整っていなかったのでしょう。また戦術としても稚拙で、手探り状態であったものと思われます。
さらに言えば、動員された兵力が少なすぎました。文永の役における元軍の戦力は諸説あってはっきりしませんが、だいたい32000から40000人前後だったようです。対する鎌倉幕府軍の動員兵力は49000から54400人。しかも更なる動員令が出ていたために、続々と援軍が九州へと向かっていました。地理に明るく補給も自国内であるために十分受けられる鎌倉幕府軍に対し、兵数で劣る小勢で戦いを挑むなど無謀以外の何ものでもありません。これは元が負けるべくして負けた戦いでした。
文永の役で圧倒的な強さで完勝した鎌倉幕府軍、しかし元ほどの大国が面子を潰されて簡単に引き下がるわけにはいきません。鎌倉幕府は次の侵攻は文永の役以上の大兵力によるものと考え、防塁を築き博多を城郭都市として再構築し再来に備えます。城郭都市博多、これもまた魅力的なテーマ。元寇と合わせて追いかけていきたいですね。
ということで実際に町を歩きながら元寇の痕跡を探し戦場跡を見つけて文永の役の妄想を膨らませて楽しむ街歩き、次回は弘安の役を取り上げて、最後に元寇のまとめ的な記事を書きたいと思っております。
奈良屋町の防塁資料館の記事↓
この記事は北岡正敏著「モンゴル襲来と国土防衛戦」を元にしています。戦争を科学的な視点からロジスティックに分析した良著、細かい分析に基づいて具体的な数値を用いて書かれた書籍。元寇の実態が見えてきます、おススメですね。
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