博多に残る激戦地の跡、発掘された元寇防塁が展示されている資料館。
「博多小学校石塁遺構展示室」博多に残る元寇防塁
福岡は元寇における本土決戦の最前線、実際に来てみると元寇ゆかりの地が各所にあるんです。そして何と言っても防衛施設で有名なのが元寇防塁。博多湾の海岸線に約20kmの他、長崎の平戸、松浦にも連なる長大な防壁は、朝鮮半島から侵攻してくる敵に備えたものでした。弘安の役ではこの防壁のおかげでモンゴル・高麗(朝鮮)連合軍は九州へ一歩も上陸できないまま、各地で敗戦を重ねたあげく嵐にあい壊滅。
半島からの侵攻を見事防ぎきった歴史に名高い元寇防塁、博多にもその一部が発掘・保存されて一般公開されていると聞いて現地へ行ってきました。
元寇防塁が保存、展示されているのは博多区の奈良屋町にある博多小学校の地下。博多駅の博多口側から海へと続く大博通りと、東西に福岡中心部を貫く昭和通りが交わる蔵本という交差点のすぐ近く。最寄り駅は、地下鉄貝塚線の呉服町。
この辺りは元寇当時は海岸線で砂浜が広がっていたそうです。戦国期には毛利、豊臣と名だたる大名を支えた博多の大商人「神屋宗湛」の屋敷跡もあります。
市営地下鉄呉服町駅の2番出口から出て、北西方向へ歩いて行くと昭和通りと交わる交差点に出ます。
「蔵本」交差点。福岡市中心部の主要道路が交差するだけにとても大きな交差点です。
モンゴル・高麗連合軍(元軍)は防御を固めた博多への上陸を断念し、志賀島へ上陸したところへ幕府軍が攻撃を開始。大きな損害を受けた元軍は志賀島を放棄、博多湾から追い出すことに成功しました。
さすがに当時の様子を偲ぶようなものは何もありません。ただ、ここがちょうど砂浜から博多の街へと入る入り口にあたる場所で、海岸部の砂丘になっていたそうです。
呉服町駅から蔵本交差点まで歩き、交差点を渡ったらすぐ左。
数十メートル行ったところに奈良屋公民館、そして博多小学校の南門がありました。石塁遺構展示室は、この中にあります。
門をくぐって小学校の敷地内に入ると、地下へと降りる階段がありました。石塁遺構展示室はこの下、ここから地下展示室へと入っていきます。
階段を下りていくと、目の前にドーンと広がる石塁遺構。実物は写真で見るより大きくて大迫力、思わず声が漏れるほど、圧倒されます。これは凄い、歴史ロマンを感じます。かつてはこの上で鎌倉武士が寛いだり、見張ったり、そして戦ったりしたのでしょう。
近くに寄ってみました。どうですかこの迫力、本物が持つ圧倒的な存在感。元寇防塁、正しくは石築地というそうですが、築かれたのが1276年ごろ。いまから740年ほどまえの構造物ですよ、それも歴史に名高い元軍の上陸を阻止した防衛線です。もうね、マジで感動します。
さらに石をクローズアップ!シッカリと組上げられた石材。人の手によるものでしょうか、穴が開いたりしています。
ほぼ出土時のまま保存されているようで、圧倒的なリアリティです。写真を見たり、話に聞いたりでは味わえないですよね、この感覚。見に来てよかった。
防塁は陸地側からは傾斜をつけて馬が乗りあげられるよう土が盛ってあり、敵の侵攻してくる方向、海岸側には乱杭や逆茂木を設置して乗り越え難く作られていました。
発掘時の写真とともに、元寇防塁の全体像を記した地図がありました。発掘時はもっと規模が大きかったんですね。調査後、この遺構はどうなったのでしょう。埋め戻して上に小学校を立てたんでしょうかね?めちゃめちゃもったいない。
発掘された遺構は小学校の運動場地下2メートル、長さ53メートル、高さは1.4メートルだったそうです。元々は高さが2~3メートルあったと推測されています。ここに展示されているのは、そのうち10メートルくらいでしょうか。
ちょうどこの場所付近を書いた有名な絵があります。教科書で見たことないですか、コレ。博多の息の浜、つまりこの防塁を描いた絵なんです。当時の強者たちが、今ここにある目の前の防塁の上に座っていたかもしれません。
防塁遺構とその防塁を描いた当時の絵、この二つが揃っている場所。過去に思いを馳せて防塁を改めて見つめてみると、当時の姿が浮かび上がってくるようで妄想がはかどります。
鎌倉時代のこの付近、息の浜をイメージしたジオラマが展示されていました。このジオラマは、NHK大河ドラマ「北条時宗」で使われたセットを再現したものだそうです。北条時宗といえば、元寇時の執権。幕府のトップです。
ただまぁ、NHKですからね。大河ドラマにおけるNHKの時代考証は専門家も首をかしげるようなのが多くて、面白ければいいみたいなところがあるので…あくまでイメージの参考という事にしておきます。
それでも無いよりあったほうが断然良くて、こういうのがあると妄想がはかどりますよね。もうね、現地に行って遺構を見ながら過去の時代に思いを馳せ、妄想にふける。それだけで幸せな気分になります。
んで、ジオラマを見てから視線をあげると目の前に本物の石塁があるんです。もぉたまらん、なにこの贅沢な空間。この防塁を巡る攻防だけでなく、子供が登ったり、いろいろと当時の人がここで生活していたんでしょう。
このほかにも、壁には様々な資料が掲示されていました。例えばコレ、十七世紀の博多のまち。十七世紀ですから、戦国末期から豊臣政権、江戸初期までといったところでしょうか。
こちらは発掘調査時の写真です。元寇防塁以外にも、戦国期の屋敷跡なども出てきたそうです。博多小学校は、戦国期の豪商「神屋宗湛」の屋敷跡でもあるんです。そっちも興味深いなぁ。そういえば、大規模な遺構の上に学校作るケースって多いですよね。もったいないなぁ。
こちらは入り口のテーブルに置いてあった、元寇当時の博多の地図と石築地の様子を描いた地図。これコピーほしい!
この地図によると、天神などの中央区一帯は海だったんですね。
このほかにも、出土品の一部が展示されていました。
この石塁遺構展示室がある奈良屋町や隣接する呉服町周辺は、博多駅前と違い古い建物なんかも残っているレトロを感じる街並みなんです。じっくりと散策してみたい場所ですよね。
1度目の元寇では大きな犠牲を払いながらも、博多から筑紫野の水城まで撤退しつつ元軍に大きな犠牲を強いています。また、各地で元軍を打ち破ってもいました。元軍を退けた神風というのは、神社に権威を持たせるために喧伝されたとする説が有力。実際には苦戦し疲弊した元・高麗連合軍が撤退しようとして嵐にあったとされています。
その一度目の元寇で再度の襲来を警戒した鎌倉幕府は、ここで展示されているような石築地をはじめとする十分な備えをもって対峙することが出来ました。その結果、2度目の元寇、弘安の役で元軍は上陸して橋頭保を確保しようと猛攻をかけますが、鎌倉幕府軍の圧倒的な打撃力の前に上陸する事が出来ません。
志賀島を占領して陣地とするも、海の中道から鎌倉幕府軍の攻撃を受け撤退。さらに海上からも攻勢をかける鎌倉幕府軍は、敵船に乗り込んで将校を生け捕るなどの戦果をあげました。そのまま一方的に敗北を重ねる元軍は壱岐まで撤退、後続の軍と合流を目指すも、またもや幕府軍の攻撃を受け壱岐から撤退。ようやく長崎県平戸で後続軍と合流を果たし、長崎県松浦の鷹島に陣地を構築して守備を固めるも幕府軍の攻撃を受け大きな損害を出します。結局、鎌倉幕府軍に散々打ち破られながら2ヶ月近く迷走し、台風に遭遇して壊滅的な打撃を受け元軍は撤退します。この時、九州の幕府軍だけでも元寇を圧倒していたなかで、京都六波羅からの援軍60000が九州へ向かっていたそうです。
こうやって現地を訪ねながらいろいろ調べてみると、実は教科書で習った内容と微妙に違ったり、新しい発見があって楽しい。妄想もはかどるというものです。
「博多小学校石塁遺構展示室」
MAP:福岡市博多区奈良屋町1−38(博多小学校内)
公開日時:毎週 土・日曜、10:00から17:00
この記事は私が訪問した時のものです、内容が現状と異なる場合があります。最新情報や詳細について、ご自身で確認されることをおすすめします。
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