福岡の幕末維新といえば地味すぎて存在すら忘れられているんだけれども、西郷隆盛が天神にやってきたりしてたんです。という事で、天神にある西郷隆盛ゆかりの地をまとめて紹介。
天神にある西郷隆盛ゆかりの地
福岡藩といえば黒田の殿様が治めた九州の大藩、江戸時代から幕末明治にかけての福岡藩といえば地味すぎて…というか、あまりいい話がない事で有名なのです。例えば博多の町というのは奈良時代や平安時代から対外貿易や外交の拠点として栄え、様々な商人たちが活躍した国際都市でした。鎌倉時代には元寇を経て国土防衛の重要拠点となり、京都と並んで幕府の機関である探題を中心に城塞都市として整備されたと言います。その後も室町から戦国、安土桃山時代まで博多の町は賑わいました。そして江戸時代、江戸幕府による鎖国政策により貿易や外交の機能は長崎へ、それに伴い有力商人達も長崎へと移って行き衰退します。
幕末期には最後まで討幕か佐幕かで藩論が纏まらず…というか、佐幕寄りの対応を取ったために、ただ時代に流されてしまった福岡藩。せめて佐賀福岡同名でも結んで幕府方について会津のように戦えばカッコもついたでしょうが、佐賀と一緒にグダグダやって薩長にケツを蹴られて大慌て。
それでも九州の玄関口であったためか国内における交通の要衝ではあったようで、幕末になると西郷隆盛や高杉晋作なども訪れています。今回は福岡天神を訪れた幕末の偉人の一人、西郷隆盛にまつわる所縁の地を紹介します。
西郷隆盛の隠れ家跡
天神の親不孝通りから少し入った場所にある、西郷南洲翁(西郷隆盛)隠家の跡。
この場所は様々なメディアなどで紹介されていて有名なはずなのですが、意外と地元の人も知らなかったりする西郷隆盛の隠れ家跡。当時の建物はなくなっていますが、天神で人気の海鮮グルメスポットである兼平鮮魚店の前には「西郷南洲翁隠家之跡」と書かれた石碑が建っています。
親不孝通りから舞鶴へ、少し入った場所にあります。
そもそもなぜ福岡の天神に西郷隆盛が隠れていたのかというと、少し話が長くなるのですが、ザックリ簡単に言うと安政の大獄の手配者を逃がすため…だと短すぎるので少し説明すると、幕末期にアメリカが日本にやってきて通商条約を結ぶわけです。日本はずっと鎖国をしていましたから、その幕府の行為を弱腰と非難して外国人なんて追い払ってしまえという攘夷運動が起き、過激な活動家たちが徒党を組んで暴れはじめます。
治安の悪化を恐れた幕府は過激派の一斉取り締まりに乗り出し、様々な人たちが捕縛されたり手配されたりしたんですね。で、手配された過激派の中に西郷隆盛と親密な関係にあったお坊さんが居まして、名前を月照というのですが。その坊さんを薩摩へと逃がすために通った経路に福岡があり、一時ではありますが匿われたという事なのです。詳しい足取りの記録はありませんが、福岡の次は大宰府で宿泊したとされています。
この月照という人ですが、薩摩への逃亡に成功するかと思えた矢先に薩摩藩から入国を拒否されます。日向へと送られることになり、その途中…西郷隆盛に船の上でションベンしてるところを後ろから抱き付かれ、そのまま海に落とされて死亡しています。西郷さん酷い…と思うんだけど、いち藩士では藩の意向に逆らえなかったんでしょうね、ずっと悔やんでいたと言いますし。
それでも西郷隆盛がこの地に滞在した事には違いなく、時を超えて同じ場所に立つことが出来る貴重なスポット。
西郷隆盛隠れ家跡に面する通りは、江戸時代からここにあった道。レトロな雰囲気が残っています。
天神は開発が進んで昔の面影を残す場所がほとんどないのですが、この道はレトロな雰囲気が残る素敵な道。街歩きには最適です。
この道を紹介した記事はコチラ↓
「西郷隆盛隠れ家跡」
今も天神に残る西郷隆盛を匿った醤油屋さん
江戸時代から続く醤油屋「福萬醤油」
幕末の福岡、追っ手から逃れるために隠密行動をしている西郷隆盛と月照、その二人を匿った醤油屋さんが今も天神に残っています。区画整理のために店の場所は移動しているそうですが、江戸時代には西郷隆盛の隠れ家跡の碑が建つ場所にお店がありました。
お店の名前は「福萬醤油」、現在は醤油ソムリエがいるお店として様々な醤油を販売するお店になっています。
福萬醤油に残る、西郷隆盛を匿った当時の敷地と建物を描いた図面。
お店に入るとズラリと並んだ醤油に圧倒されるんですけども、そんな醤油づくしの店内の壁に古い図面が掛けられています。この図面は江戸時代の福萬醤油の敷地と建物を描いたもので、西郷隆盛はこの中の蔵と書かれた建物に匿われていたのだとか。
へ~~!すごい、こんなものが残っている事に感激。
しかし西郷隆盛を匿った当時の店主は、後に福岡藩士によって殺害されてしまったそうです。
福萬醤油のテイスティングバー
福萬醤油では醤油の販売だけでなく、様々な醤油のテイスティングが出来る醤油バーを備えています。ランチや玉子かけご飯といったメニューがあるので、実際に醤油を味わいながら好みの一品を探すことが出来る。
醤油は美味しいし様々なご当地メーカーがありますからね、醤油愛好家への入り口として利用するには最適なお店。
福萬醤油の紹介記事はコチラ↓
「福萬醤油」
住所:福岡市中央区天神3丁目6-9
営業時間:10:00から17:00(ランチ11:30から14:00)
店休日:正月休暇のみ
西南戦争の政府軍本営跡
福岡市天神にある勝立寺、ビルの間に建つお寺です。
福岡天神にある西郷隆盛ゆかりの地、最後の場所は西郷隆盛を自刃に追い込んだ西南戦争の本営跡です。討幕、明治維新が成った1877年(明治10年)に西郷隆盛は日本政府に対して反乱を起こします。旧薩摩藩士を中心に、九州各地の旧藩士が参加した内戦、西南戦争です。
明治初期は新しい政府による統治が安定せず、九州の佐賀で起きた佐賀の乱を皮切りに各地で武装蜂起が相次ぎました。その中で最大にして最後の反乱となったのが西南戦争。
勝立寺に建つ本営跡の碑
1877年2月15日、西郷隆盛率いる反政府軍が薩摩を出発。同2月19日に明治天皇により征討の勅が出され征討軍の派遣が決定。有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に任じ討伐軍を派遣、その際に本営となったのがここ、勝立寺です。
西郷率いる反乱軍は薩摩だけでなく福岡や中津、熊本などからも多くの兵を集め総数は約3万。対する政府軍は約7万の軍勢で鎮圧に向かいます。2倍以上の兵力差にもかかわらず、政府軍も武器弾薬が不足するなど苦戦を強いられます。この鎮圧戦において政府軍である帝国陸軍は約3500万発の弾薬を使用、西郷軍1人を倒すのに約2000発もの弾薬を消費した計算になるそうです。
勝立寺境内にある明石家の墓所
この他にも勝立寺には日露戦争で日本を勝利させるために欧州での工作に奔走した、明石元二郎陸軍大将とその一族の墓もあります。
勝立寺はキリスト教と仏教の問答で、仏教が勝利したことからキリスト教徒の居住地に建立されたのが始まり。名前も「勝って立つ寺」ということで、黒田長政の命により「勝立寺」と名付けられました。建立のいきさつや日露戦争の英雄が眠る墓、西南戦争に勝利した政府軍の本営など、勝利に結びつく謂れのあるお寺。
勝利のパワースポットと呼んでいいのかもしれませんね。
勝立寺を紹介した記事はコチラ↓
「勝立寺」
住所:福岡市中央区天神4-1-5
土地の歴史を知ることで楽しさ倍増
福岡に限らず日本各地、人が住む街にはそれぞれ歴史があって、その歴史を知ることで街の楽しみ方が大きく変わってきます。普段は何気なく通っている道でも、そこに建つ小さな石碑に目を向けると意外な人との繋がりを発見したり、有名な出来事の現場であったり、興味を持って街を見渡してみると面白い場所が沢山ある事に気づきます。
歴史上の人物や出来事、同じ現場に立ち時間を隔てて空間を共有する。なんとも不思議な感じではあるんですけども、そこに歴史の連続性というか人の営みをリアルに感じることが出来るというか、自分もまた歴史の一部であることを実感することで見える景色が違ってくる。ちょっと想像力を働かせれば、脳内でお手軽タイムスリップを楽しむことが出来ます。
福岡の歴史にまつわるスポットを今後も歩き、このサイトで紹介していきたいと思っています。興味を持つためには知らなきゃいけない、知るためには調べなきゃいけない…けど面倒くさい。そんな人たちに知るきっかけとなるような記事を書けたらいいな…と考えています。
ただ筆者は研究者でも何でもないド素人、ただの中卒非正規労働者が個人で発信しているサイトですから、正確性に関してはなんとも言い難いところ。出来るだけ書籍やネットでも信ぴょう性の高そうな情報を参考にしていますが、間違えていたらごめんなさい。先に謝罪しておきます。
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